高木彬光 首を買う女 目 次  青髯《あおひげ》の妻  恐《おそろ》しき毒  首を買う女  鎖《くさり》  湖上に散りぬ  モデル殺人事件  棋神《きしん》の敗れた日  青髯《あおひげ》の妻     1  かまきりの雌《めす》は、自分の性慾《せいよく》が満された瞬間《しゆんかん》、相手の雄《おす》をボリボリと、喰《く》い殺してしまうのだといわれている。  恐《おそろ》しい話であるが、これが案外、自然界の真理かも知れないのだ。ただ人間の社会では、道徳という内的の規範《きはん》があり、法律という外的の束縛《そくばく》があって、そのような本能は、何十億年か以前に、消滅《しようめつ》し去った感情として、呼び起されることは、まずないといえるだろう。  だから万一、何かのはずみで、そのような恐しい犯罪が行われたとしようか。人は思わず眉《まゆ》をひそめ、その恐しさに慄然《りつぜん》とする。そして許される限りの厳刑《げんけい》を、その犯人に要求してやまないだろう。  だがそのように、人が戦慄《せんりつ》を覚えるのは、誰《だれ》しもどこか心のひそかな片隅《かたすみ》に、死滅《しめつ》しきれずにくすぶっている、古い手傷にひやりとさわられるせいではないか。  西洋の昔《むかし》の伝説には、七人の妻を切り刻《きざ》んだという、あの有名な青髯《あおひげ》の話が伝えられている。いや伝説まで溯《さかのぼ》らなくとも、パリには、悪名を世界に謳《うた》われた、ランドリュー事件があったではないか。いやいや、そのような遠くの例を引くまでもなく、あの恐しい小平《こだいら》事件は、つい最近、我々の目の前で起った、戦慄すべき一例ではないか。  だがこのように、犯罪が発覚《はつかく》し、その犯人が処刑《しよけい》を受けるのは、実際に行われた犯罪の、その幾割《いくわり》に当っているのだろう。ひょっとしたら、このような種類の犯罪は、あの北海の波間にただよう氷山のように、その大半が埋《うずも》れて、誰《だれ》の目にもつかずに、過ぎ去っているのではないだろうか。  天才的な犯罪者は、決して自分の犯行が、犯罪であることを、人に感じさせないものなのだ。たとえば人を殺すのにも、首を絞《し》めたり、切り刻《きざ》んだりするのは、下《げ》の下《げ》の方法なのである。病死と見せかけ、過失死を装《よそお》わせる、巧妙《こうみよう》な方法は、いくつもいくつも考えられるのだ。  諸君も警戒《けいかい》したまえ。案外諸君のまわりにも、このように巧《たく》みに法網《ほうもう》を逃《のが》れた殺人鬼《さつじんき》が、巧妙極る網《あみ》を張り巡《めぐ》らしているかも知れないのである。ことにこの一文を、お読みになっている読者諸氏が、もしまだうら若い、未婚《みこん》の女性であるならば、私は声を大きくして申し上げよう。  よく素姓《すじよう》も知らぬ男に、決して心を許してはならない。その男は、あの恐《おそろ》しい青髯《あおひげ》なのかも知れないのだ——と。  私は自分の兄、警視庁|捜査《そうさ》第一課長、松下英一郎の記録の中に、そのような恐しい実例を見出した。  既《すで》に三人の妻を屠《ほふ》って、この男は何所《どこ》へともなく、消え失せてしまった。生きているのか、死んでいるのか、それさえ誰《だれ》にも分らなかった。まして彼の逮捕《たいほ》や処刑《しよけい》など、到底《とうてい》司直の手の及《およ》ぶところではなかった。  だが案外、彼はいま、銀座通りの雑沓《ざつとう》に揉《も》まれつつ、鷲《わし》のように爛々《らんらん》と、光を放つ両眼を輝《かがや》かせ、次の餌食《えじき》を物色しているのではないだろうか。  あるいはまた、彼はそのたくましい両腕《りよううで》に、既《すで》に美しい裸形《らぎよう》の犠牲《ぎせい》を抱《だ》きかかえ、そのやわらかな感触《かんしよく》に、悪魔《あくま》の笑みを洩《も》らしつつ、血のような舌を、なめずり廻《まわ》しているのではないだろうか。  それは誰にも分ることではなかった。  それでは、私は兄の記録の中に、未解決と朱書《しゆがき》されてそのままになっている、この恐しい青髯事件の梗概《こうがい》を、諸君の前にお伝えしていくことにしよう。  この三つの殺人事件には、すべて同一人物と思われる、一人の男がたえず姿を現している。その名はいつも違《ちが》っていたが、その何《いず》れの場合にも共通した風貌《ふうぼう》、モシャモシャした頭髪《とうはつ》、黒眼鏡、青く剃《そ》りあげた顎髯《あごひげ》の跡《あと》から、捜査《そうさ》当局ではいつの間にか、彼を青髯と呼んでいた。  第一の事件は、今を去る七年前、昭和十七年の夏に起ったことなのである。  神奈川県|葉山《はやま》海岸の、小さな別荘《べつそう》を借りて滞在《たいざい》していた、二人の若い男女があった。  女の方は三十五、六、下ぶくれの、黒い切長《きれなが》な眼にしずくを含《ふく》んだ、肉感的な豊満な美女、男の方は三十前後、中肉中背で頭にはいつ櫛《くし》を入れたかも知れぬような、黒眼鏡を外したことのない無口な男——職業は小説家、名は八橋京一と名のっていたが……  ただその作品も名前も、誰《だれ》一人として目にしたことはなかったのである。だが何といっても、当時は戦争が始って間もないことだったし、小説家という小説家は、みな活動を束縛《そくばく》されて、気息奄々《きそくえんえん》と生きのびている時代だったから、こうして若き燕《つばめ》の生活を送っている無名作家など、誰も問題にする者はなかった。  生活は、その当時としては、かなり贅沢《ぜいたく》な方であった。明かに正式の夫婦とは思われなかったが、女の方が、かなりの金を持っているらしく、移動証明さえ持たずに、生活していたのである。このために、後で捜査《そうさ》も完全に、暗礁《あんしよう》に乗り上げてしまったのである。  夏も終りに近づいて、避暑客《ひしよきやく》が一人二人と、この海岸から姿を消して行ったころ、突然《とつぜん》この二人はその別荘から、姿をかくしてしまったのだ。  家具もそのまま残っている。着物もいくらか残っていた。だが一夜の中に、人間だけがどこかにいなくなって、無人の家に残されたのは、ただ主を失って狂《くる》わしげに鳴き立てる、一|匹《ぴき》の真黒《まつくろ》な烏猫《からすねこ》ばかりであった。  最初は誰も、これを犯罪とは思ってはいなかった。小説家というものに、よくありがちの無軌道《むきどう》から、どこかへ二人でぶらりと旅行にでも出かけたのだろう。近所の者もそう思っていたが、あまり帰りがおそいので、三日目になって、家主が警察へ届け出た。  或《あるい》は二人で情死したのではないか——そのような疑いも起ったので、附近《ふきん》の捜索《そうさく》が行われたが、それも空《むな》しく、しばらくはそのまま放置されたのである。  ところが十日目になって、この海岸に女の屍体《したい》が流れついた。全身の腐爛《ふらん》もいちじるしく、魚や海鳥に屍肉《しにく》をついばまれて、誰《だれ》の屍体とも分らなかったが、その首すじにはありありと、絞殺《こうさつ》の跡《あと》が残っていたのだった。  この二人の失踪《しつそう》事件と、この女の絞殺屍体との間には、何か恐《おそろ》しい連関が、ありはせぬかということは、当然誰にも考えられることなのである。女の身元も本名も分らない、とすればこれこそ、巧妙《こうみよう》に計画された殺人ではないか。  葉山警察署の首脳部も、途端《とたん》に色めき立ったのである。だが直ちに全国の警察に、手配がめぐらされたにもかかわらず、この男はその後杳《よう》として、姿をくらましてしまったのだった。  第二の事件は、それから更《さら》に二年の後、昭和十九年の夏に起った。  軽井沢《かるいざわ》の愛宕山《あたごやま》の麓《ふもと》にある、一軒《けん》のバンガロー風の小さな別荘《べつそう》を借りた、二人の男女があったのである。女の方は三十五、六、小肥《こぶと》りで、金ぶちの眼鏡をかけて、ザマス口調で話をする、一目でそれと分る、東京の有閑《ゆうかん》婦人のタイプであった。  男の方は、洋画家の舟田鏡一と名のる男、モシャモシャした頭髪《とうはつ》、黒眼鏡、いつも顎《あご》のあたりも青々しく、ポケットに手をつっこんで、一人で散歩していたが、誰一人として、彼が絵筆を握《にぎ》るのは、見たことがなかったのである。  この高原に、爽涼《そうりよう》の秋風が訪れて来ようとする九月の初め、この二人はまたも忽然《こつぜん》と姿を消した。金もなく宝石もなく、女の着物さえほとんど残ってはいないのだ。残されたものは今度もまた——食物を求めて空屋の中に、はげしく鳴きわめく、一|匹《ぴき》の黒猫《くろねこ》ばかりだったのである。  この報告が、軽井沢の警察署に伝えられた時、当局は思わず色を失った。二年前のこの青髯《あおひげ》の葉山海岸における凶行《きようこう》は、さすがに当局の注意を、まだ免《まぬが》れてはいなかった。  モシャモシャした頭髪《とうはつ》、黒眼鏡に青い髯《ひげ》の剃跡《そりあと》、残された黒猫、避暑地《ひしよち》の別荘《べつそう》をその舞台《ぶたい》に選ぶ手口など、これがあの青髯の再来であろうということには、ほとんど疑いの余地がないのであった。  だが附近《ふきん》の山や森かげなど、虱《しらみ》つぶしの厳重な捜査《そうさ》が行われたにも拘《かかわ》らず、今度は屍体《したい》さえ、発見されることがなかったのである。  ただ女の身元だけが判明した。捜査《そうさ》が迷宮に入ろうとしていた、その年の十月のこと、軽井沢の警察署に、一人の海軍士官がたずねて来たのである。  いくら戦況《せんきよう》が不利になり始めたころとはいいながら、まだ国内では、星と錨《いかり》が何にもまして、幅を利かしてのさばっていたころであるから、警察署でも、下へも置かない鄭重《ていちよう》な取扱いで、この潮焼けした、青年士官を迎《むか》えたのだが…… 「自分は、〇〇航空隊所属の、尾島二郎という大尉《たいい》なのですが、実は休暇《きゆうか》でこのほど、福岡の実家へ帰省して見ますと、たった一人の姉が、どこかへ行方不明になっているのです。近所の話では、友人と軽井沢の方へ夏じゅう行っている、といって出かけたきりだというのですが、まだ大分残っていたはずの銀行預金も、全部引き出されてありますし、宝石類や衣類も見当らないので、こちらへおたずねしたら、分りはしないかと思って、こうして上ったわけなのですが……」  これはこの暗澹《あんたん》たる事件の見通しに、一条の光明を与《あた》えたものだった。早速この家に残された衣類を、この士官に鑑定《かんてい》してもらったところ、 「間違《まちが》いありません。これはたしかに、姉のものです。姉は……姉は……一体どうしたのでしょうか」  彼は思わず叫《さけ》び出していた。すわ——係官も緊張《きんちよう》して、掌《て》に汗《あせ》を握《にぎ》りしめていたのである。  質問の結果、次のような事実が判明した。  彼の姉、冴子《さえこ》は若くして、ある実業家と結婚《けつこん》したが、間もなく死別し、子供がなかったので、相当の財産を分けてもらって、実家に帰っていたのだが、弟のほかには、身寄といっても、一人もなく、しかも彼も軍人で家に帰ることは珍《めずら》しかったから、悶々《もんもん》として孤閨《こけい》を守っていたのだという。  直ちに福岡に手配が行われ、自宅から、彼女の写真が取り寄せられて、近所の人々の首実検が行われたが—— 「この方ですわ。たしかにこの別荘《べつそう》に住んでいた女の方は、この人にちがいありませんわ——」  それを見た近所の人々は、声を合せて、このように証言したのである。だが自宅の方の調査も空《むな》しく、この男、青髯《あおひげ》の正体については、何の手がかりも得られなかった。尾島|大尉《たいい》は暗然として、後事を友人の手に託《たく》し、ふたたび戦場へ帰って行ったのである。  第三の凶行《きようこう》が行われたのは、それからわずか半年の後、昭和二十年三月のことである。  この三月九日の大空襲によって、東京の下町一帯が、見るも無惨《むざん》な焼土と化する、ほとんど寸前の出来事であった。  その当時は今とはちがって、東京都民は先を争って、田舎《いなか》へ逃《に》げ出そう、逃げ出そうと、浮足《うきあし》立っていた時だったから、自然空家も多かったのだが、そのころ、本所森下町《ほんじよもりしたちよう》の天祖神社の近くの家を借りて越《こ》して来た、二人の中年の男女があった。  神田《かんだ》のあたりで空襲にあって、こちらへ移って来たのだというが、そういえば家財といっても割合に少く、ただ現金だけは相当に持っている風であった。  女の方は、三十三、四の病身で、家に引籠《ひきこも》っていることが多かったものだから、配給物や何かは、専《もつぱ》ら近所に頼《たの》んでいたが、その男の人相は、何と——モジャモジャした頭髪《とうはつ》、黒眼鏡に青い髯《ひげ》の剃跡《そりあと》と、まぎれもなく、あの青髯に瓜《うり》二つだった。しかも彼は、大きな一匹の黒猫《くろねこ》を、家に飼《か》っていたのだった。  しかしその当時の社会情勢は、このような一人の男の生活には、目を向けているほどの余裕《よゆう》はなかった。戦場では毎日、何千何万という人間が、たえず命を落していたし、全国の空襲は、ようやく熾烈《しれつ》の度を加えようとしていた。そのような時機の間隙《かんげき》を縫《ぬ》って、この犯罪は行われて行ったのである。  だが幸いに、たった一人だけ、この二人の奇妙《きみよう》な生活に、注意の眼を向けていた女があった。その名を草場和子という。三十四、五の女で、これもまた横浜の方で戦災を受け、その隣《となり》に、この二人と前後して越《こ》して来たのだが、夫は応召しているとかで、淋《さび》しさと暇《ひま》のあまり、この家をよく訪れていたのだという。器量はまずまず十人|並《なみ》といったところだが、好奇心《こうきしん》だけは人一倍、持っていたのにちがいない。  ある夜のこと、この女は何かの用事で、隣の家をたずねて行った。だが玄関《げんかん》は厳重に戸じまりがしてあったし、裏口にも固く鍵《かぎ》がかかって、中に人のいる気配もなかった。  おや、二人とも出かけてしまったのかしら、おかしなこともあるもんだわ——  こう思って見廻《みまわ》している中に、雨戸からかすかに、燈火《とうか》の洩《も》れて来るのに気がついて、むらむらと湧《わ》き上って来た好奇心から、彼女は雨戸の隙間《すきま》に眼を寄せて、家の中をのぞきこんだのである。  だが中には、恐《おそろ》しい地獄《じごく》図絵が展開されていたのだった。その六|畳《じよう》の部屋《へや》の中には、あの男が、手に鋭《するど》い日本刀をふりかざして立っていた。唇《くちびる》のあたりに、ニタニタと気味悪い微笑《びしよう》を浮べ、ベロベロと長い舌を出して、さかんに舌なめずりをしているではないか。しかもその電燈《でんとう》に照された畳《たたみ》の上には、人魚のような女の裸身《らしん》が、なまめかしく横たわっていたのである。  男は手にしていた日本刀で、その乳房《ちぶさ》のあたりを、縦横《じゆうおう》に切りきざんでいた。青白く燐光《りんこう》を放つような、女体の上に、どろどろと赤い血潮が、蜘蛛《くも》の脚《あし》のように拡《ひろ》がって行った。耳をすませば、畳の上に、ポトリポトリと、血のしたたる音さえ聞えて来るかと思われる。しかもどこから現れたか、一匹の黒猫《くろねこ》が、ゆたかな胸のあたりに駈《か》け上って、鋭《するど》い爪《つめ》でその肉をかきむしりながら、喉《のど》を鳴らして、鳴き立てているのだった……  さすがに彼女も、この刺戟《しげき》には最早|我慢《がまん》ができなかった。叫《さけ》ぼうとしても言葉さえ出ず、あの男が今にも日本刀を振《ふ》りかぶって、自分を追いかけて来るのではないかと思われて、彼女はその場にへなへなと、気を失って崩折《くずお》れてしまったのだ。  気がついたのは、二時間ほどしてからのことであった。見れば、中の電燈はもう消えている。人の気配《けはい》は感じられない……  ただ聞えるのは、狂《くる》わしげにバリバリと畳《たたみ》をむしり立てながら、鳴き叫ぶ猫の声ばかり。一声、二声、また一声——  それ以上、彼女はその場に居たたまれなかった。追われるように、その家を飛び出すと、彼女は附近《ふきん》の交番へ駈《か》けつけたのだった。 「タタ……大変、大変、人殺し、女がそこで殺されています!」  だが彼女が血相変えた巡査を伴《ともな》って、その家へ帰って来た時、家の中には、どこにも人影《ひとかげ》は見られなかった。  男の影も、女の屍体《したい》も残っていない!  ただ、畳《たたみ》の上はべっとりと、生温い血潮にまみれ、四本の足を赤黒く染めて、鳴き立てている不吉な黒猫《くろねこ》——これだけは、あまりに生々しい現実であった。青髯《あおひげ》の殺人劇の第三幕を、まざまざと見せつける以外の何物でもなかった。  凶器《きようき》の日本刀は、隣《となり》の部屋《へや》の畳の上に、ぐさりと突《つ》き立てられていた。その刃《は》の上には、べっとりと人の脂《あぶら》と血が浮《う》いて……  ただ不思議なことには、屍体《したい》はどこにも発見されなかったのである。  空襲《くうしゆう》が激《はげ》しいころだったから、その町内にも数人の警防団員が見張りしていた。だがその時間中、その附近《ふきん》を通った者はないでもないが、怪《あや》しい大きな荷物を持った男とか、自動車は通らなかったと証言しているのだった。  それでは屍体は、どこへ消え失せたのだろうか。その翌日、虱潰《しらみつぶ》しに附近の家屋や防空壕《ぼうくうごう》の、徹底的《てつていてき》な捜査《そうさ》が行われていったのだが、その結果、これぞという手掛《てがか》りは何一つとして得られなかった。  男の名は今野恭一、女の名はその妻勝子、しかしこれは決して本名ではなかったのだ。  そしてその後三日とたたぬ中に、B二九の大編隊は、このあたりにも無数の焼夷弾《しよういだん》の雨を降らせ、この惨鼻《さんび》を極めた現場も、紅蓮《ぐれん》の焔《ほのお》に包まれて、跡形《あとかた》もなく焼け落ちてしまったのだ。  青髯の行方はどうなったか。屍体がどのように処分されていたか——これは永久に解決できない謎《なぞ》なのであろう。  だが我々は、この三つの事件を通じて、一つの犯罪方式を見出すことができる。  被害者《ひがいしや》は三人とも、ほとんど係累《けいるい》のない金持の婦人であった。しかもこの青髯との結婚《けつこん》生活に入る前に、その財産をほとんど全部、処理の容易な現金や貴金属に、変えていた跡《あと》が見える。その犯行方法は冷酷《れいこく》にして巧妙《こうみよう》、屍体が発見されたのは、最初の一例だけに過ぎないのだ。青髯がまだ今でもこの日本に生きているか、それともあの大空襲の犠牲《ぎせい》となって、その犯行の秘密を抱《いだ》いたまま、地獄《じごく》の業火《ごうか》の中に蠢《うごめ》いているか、これは誰《だれ》にも分ることではない。ただ仮《かり》に第一の青髯《あおひげ》は、命を落しておったとしても、その後に、第二第三の青髯が、生れて来ないとどうしていえよう。  犯罪は、心の隙《すき》から生れるのである。この場合でも、もし犠牲者《ぎせいしや》の女の方が、不動の信念を持って生活を続けていたならば、このような悲劇は、起らずにすんだかも知れないのだ。この記録が、いささかなりとも、犯罪防止の一助となればと念じつつ、私はこれを公けにすることにしたのである。  長々と、拙《つたな》い一文をお目にかけて、恐縮《きようしゆく》であるが、実はこれは私がある雑誌からたのまれて、防犯宣伝の随筆《ずいひつ》として、書いて渡《わた》した文章なのである。ただこれは私の創作ではなく、実際に兄の捜査記録《そうさきろく》から取材した実話であった。ただ兄の注意によって人物の名前だけは仮名を用いていたのだが……  締切《しめきり》に追われ、わいわいと催促《さいそく》を受けて、止《や》むを得ず、これは渡して見たものの、正直なところ、私は自分がこの文章を書いたことさえ忘れていた。  だがこの恐《おそろ》しい青髯事件は、決してこれで完結したのではなかった。この一文が活字となって、世に現れたのを契機《けいき》として、青髯殺人事件の第四幕は、またもこの東京に行われたのである……。     2  さてこの一文を発表したところ、反響《はんきよう》はまず思いがけない方面から現れた。第一に『黒猫座《くろねこざ》』という劇団から、これを脚色《きやくしよく》上演したいと、私に申入れて来たのである。  何しろ当今《とうこん》では、映画も演劇も、すべてエロとスリルがないと、客が集らないのだそうで、気の小さい私などは、看板を見ただけでも、気が遠くなってしまうような、出し物が多いのであるが、この一座も浅草《あさくさ》のレビュー劇場、黒白座を常席のようにして、物凄《ものすご》い裸踊《はだかおど》りを看板に、客を引いてきた劇団である。  光栄というか、有難迷惑《ありがためいわく》というか、さすがの私も苦笑せずにはおられなかった。  しかしまあこれも何かの後学《こうがく》のためにと、私は一日、ぶらりとその楽屋《がくや》を訪れて行った。  名刺《めいし》を出すと、マネージャーの、杉内良夫という男が、あわてて飛び出して来た。 「松下研三先生でいらっしゃいますか。お作《さく》はいつも非常に面白く拝読いたしております。この度は、どうもとんだお願いを申し上げまして、さあ、どうぞこちらへ……」  こうした劇場の楽屋というのは、私も初めての経験であったが、ちょうどその時、舞台《ぶたい》ではレビューが、幕を上げようとしていた時であっただけに、いやはや戦場のような騒《さわ》ぎなのである。  楽器をかかえ、煙草《たばこ》をくわえた、疲《つか》れ切ったような顔をした楽士の一隊が、地下道からオーケストラボックスに、姿を消して行ったと思うと、その後から短いズロースに、乳当《ちちあ》てだけの娘子軍《じようしぐん》が一隊、ペチャペチャしゃべりながら、颯爽《さつそう》と私をおしのけて、舞台へ飛び出して行った。  それだけならば、まだよかったのだが、この埃《ほこり》と白粉《おしろい》と煙草の匂《にお》いの、むんむんするような狭《せま》い廊下《ろうか》を、右に折れようとした時、私に突《つ》き当ったのは、美しい全裸《ぜんら》の女であった。身を蔽《おお》うものとては、わずかに一枚の無果花《いちじく》の葉、その外には、首にかけた造花の花環《はなわ》があるばかり、もちろん舞台のいでたちであろうが……  それに正面衝突《しようとつ》したのであるから、私もさすがに顔から火の出るような思いがした。だが向うの方は、案外平気なものである。 「まあ失礼……ごめんなさいね……」 「春日《かすが》君、だめじゃないか。舞台へ出るまでは、何かひっかけていなくちゃいけないって、あれだけいってあるのに……」 「いいじゃないの。今日はいそがしかったもんだから……」 「困るね……ところで松下先生、こちらは当座のスター、チェリー春日さん。こちらは今度の脚本《きやくほん》の原作者、松下研三先生」  さすがに今度は彼女も顔を赤らめて、あわてて両手で胸と腰《こし》とをかくして、ペコリと頭を下げた。 「どうも……こんな恰好《かつこう》で……ご挨拶《あいさつ》は改めて後ほど……舞台《ぶたい》ですから……」 「春日さん、出番ですよ」  舞台の方から声が聞えた。 「それでは失礼しますわ……」  彼女はあわてて、舞台の方へ、狭《せま》い廊下《ろうか》を走り去って行った。 「あれが舞台のいでたちですか。実に恐《おそろ》しい姿ですね」  客席から流れて来る拍手《はくしゆ》の音に、私は呆然《ぼうぜん》としてたたずんでいた。 「いや、あのぐらいにしなければ、このごろは客に受けませんので……さあ、どうぞ」 「もう大丈夫《だいじようぶ》ですか」 「そんなにご心配なく。あんなに物凄《ものすご》いのは、外に二人といませんから、さあこちらへ」  私は額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら、廊下の突《つ》き当りの一室に入った。 「いやどうも失礼を……」 「こちらこそ……」  私は初めて落ちついて、彼の顔を見つめた。中《ちゆう》肉中《にくちゆう》背《ぜい》のがっちりした体格であるが、髯《ひげ》の剃跡《そりあと》が青々しいのが、何となく印象的であった。 「この度はひとつよろしくお願いいたします。まあ、本劇団としましても、今度はまじめに、本格的な作品に取組んで見ようというわけでして……」 「まあ、私には舞台のことは分りませんから、どうかこちらのよろしいように……」  いつの間にか、私は承諾《しようだく》してしまったような形になっていた。 「それで芝居《しばい》では、第三の殺人をクライマックスにしまして、ぐっと盛り上げる形にしたいと思うのですが、何しろ役が役ですから、殺されるのは、当座の今売り出しのスター、先ほど先生がお会いになった、チェリー春日に割り当てようというわけなので……」 「あの方は、裸踊《はだかおど》りだけではないのですか……」 「それがあれで、結構《けつこう》歌も歌えれば、芝居もする、中々|重宝《ちようほう》な女なものですから……」  私は観念して目を閉じたのである。これでは私の作の運命も、ほぼ極まったというものなのだ。ええ、こうなっては、運を天に任せて、どんな芝居になって行くか、高見の見物をしようではないか——  その時どこからか、ニャオーン、ニャオーンと、猫《ねこ》の鳴声が聞えて来た。はっと思って目を開くと、そこには頭の天ぺんから、足の爪先《つまさき》まで、白い毛一本ない烏猫《からすねこ》が、背を丸くし、尻尾《しつぽ》を棒のように突立《つつた》てて、私の顔を見つめているではないか。  私は何か知れない戦慄《せんりつ》を感じた。 「この猫は……」 「この一座のマスコットなんです。私が生れつき、猫が大好きなものですから。それにこの猫を飼《か》いはじめましてから、興行成績も上々なんですし……」 「ところで、ちょっとおたずねしますがね、この青髯劇を上演なさろうというのは、一体どなたの企画《きかく》だったんですか……」 「それが松下先生、面白いんですよ。この劇団の資本家のコレですがね……」  彼が声をひそめて、左の小指を上げた時だった。コツコツと扉《とびら》をノックする音がした。 「お入り——」  入って来たのは、三十七、八の豪奢《ごうしや》ななりをした婦人であった。黒の和服に、銀狐《ぎんぎつね》の襟巻《えりまき》を首に巻いて、左の指には、三カラットぐらいはありそうな、ダイヤの指環《ゆびわ》が輝《かがや》いている。 「杉内さん、たくは見えてません——」 「いいえ、今日はお見えになっていませんよ」 「そう、いいえ、別に何でもないんだけど……このお方は」 「ああ奥《おく》さま、実はちょうど、奥さんのお噂《うわさ》をしていたところなんですよ。こちらが松下先生、こちらは河野和子さん——」  その女は、唇《くちびる》のあたりに、濃艶《のうえん》な微笑《びしよう》をうかべた。 「まあ、それは存じませんで……今度は光栄の至りでしたわ」  私には、何が何だか分らなかった。 「とおっしゃると……」 「まだお分りになりません。わたくしのことをお書きになっておいて……あの青髯《あおひげ》の第三の人殺しを発見しました、草場和子の後身《こうしん》でございますのよ」  そうだったのか、この女がまだ生きていたのか——私の心は思わず叫《さけ》んでいたのだった。これならば、この女がこの劇団に強力な発言権を持っているならば、黒猫座《くろねこざ》が私の作品を、上演しようと企画《きかく》したのも、決して不思議なことではない! 「ホホ……びっくりなさいまして。まさかこんなお婆《ばあ》さんとは、お考えになっていられませんでしたでしょうね」 「とんでもない。あまりお若くて、お綺麗《きれい》なので、驚《おどろ》いているくらいなのですよ」  これは決してお世辞《せじ》でも、何でもなかった。あの兄の記録を読んで私の受けた感じは、下谷《したや》附近のおかみさんに毛が生えたくらいの女、おしゃべりで、醜《みにく》くって、品もない女だと考えていたが、この美貌《びぼう》と若さと、妖艶《ようえん》を帯びた不思議な気品とは、三十にとどかぬ貴婦人と思われるばかりだった。 「まあ、さすがは小説など、お書きになっておられるだけあって、お口がお上手な……」  私たちは、テーブルを囲《かこ》んで、いろいろその当時の話などを問いただしていたが、やがて、レビューが終ったと見えて、廊下《ろうか》にはがやがやと、多勢の足音が聞え、扉《とびら》をノックして、チェリー春日が入って来た。さすがに今度は派手な模様のガウンを素肌《すはだ》にひっかけて、乳房《ちぶさ》や腰《こし》はかくしていた。 「先生、さきほどはとんだ失礼を……まあ、奥《おく》さん、いらっしっていたの」 「ええ、さっきからおうかがいしておりましたのよ」  言葉こそ叮寧《ていねい》だったが、何だかこの二人の女の間には、露《あらわ》な敵意が閃《ひらめ》いているように、私には感じられてならなかったのだ。 「奥さん。青髯《あおひげ》に殺された女っていうのは、美人でしたの」 「それはね、きれいでしたけど、あなたほどじゃありませんでしたわ」 「まあ、ありがとう。杉内さん、煙草《たばこ》持ってない」  銀のシガレットケースから、ピースを一本|抜《ぬ》き取って、唇《くちびる》の端《はし》にしどけなく、くわえながら、彼女は椅子《いす》によりかかって、足を組んだ。  白い肉づきのよい太股《ふともも》が、ガウンの裾《すそ》からなまめかしく、こぼれて見える。私は不思議な圧迫《あつぱく》を感じて、目を外《そ》らした。 「ところで、主演の青髯を、おやりになるのは……」 「光岡竜二という男です。ご紹介《しようかい》しましょう。春日君、すまないけれど、顔が出来たら、幕間にちょっと松下先生の所へご挨拶《あいさつ》に来るよう、光岡君にそういってくれたまえ」  やがて彼女は、彼を伴《ともな》って帰って来たが、この男も何と、舞台《ぶたい》の扮装《ふんそう》には違《ちが》いあるまいが、顔の右半面に大きな赤黒い、火傷《やけど》の痕《あと》が残っていて、せむしで、びっこで、出っ歯と来ている。いくら本当の素顔《すがお》でないとは思っても、私には何だか気味《きみ》がよくなかった。  いろいろと打合せをすました後で、私は杉内マネージャーに送られて、楽屋《がくや》を出た。  その時私は、さっきから気になってたまらなかった質問を、彼の耳にささやいて見たのである。 「杉内さん、つまらないことを聞くようですが、あの女の人二人の中には、何かあるのじゃありませんか」 「さすがは探偵《たんてい》作家……ご明察《めいさつ》ですな」  彼もあたりを見廻《みまわ》しながら、声を低めて答えたのである。 「何しろ、春日君はあんな女でしょう。方々の男とたえず浮名《うきな》を流して、こんどは河野さんの旦那《だんな》さんに、手を出しているんですから、奥《おく》さんもカンカンになって、やきもちを焼くわけですよ」  なるほど、そうだったのか——私はうなずいて、この黒猫座《くろねこざ》を後にした。  初冬の風は私の頬《ほお》を冷やかになぶって過ぎ、暮色《ぼしよく》が半ばこの歓楽街を包みつくさんとしているころだった。雑沓《ざつとう》の中にまじって、私は地下鉄の方へ歩いて行ったが、心はまるでこの日の灰色の空のよう、何とはなしに沈《しず》んでいた。気をまぎらそうと二度三度、人混《ひとごみ》の中を歩き過ぎたが、元気も出ず、私は疲れた足を引きずって、ある喫茶店《きつさてん》の二階へ上って行った。 「まあ、松下先生——」  澄《す》んだ女の声が聞えた。見れば——向うの窓際のテーブルには、河野和子が腰《こし》をおろして、コーヒーの茶碗《ちやわん》を、傾《かたむ》けていたのである。 「これはどうも——」 「先生、こちらへいらっしゃいません」 「お邪魔《じやま》じゃありませんか」 「いいえ、ちっとも」  私は彼女に向きあって腰をおろした。 「どなたかお待ち合せですか」 「ええ、待ち人は来たらず——よ」 「それはどうも、お気の毒な……」 「いいのよ。大したことはないのよ。主人ですもの、さっき電話をかけたら、ここで待ち合せようというのよ。ホホ……」  だがその笑いは、凍りついたように、途中《とちゆう》で止った。何か恐《おそろ》しい、見てはならないものを突然《とつぜん》見たように、その頬《ほお》の指は、かすかにかすかに震《ふる》えていた。 「どうかなすったのですか……」 「先生……あの男は!」  青ざめて彼女の指さす方に目をやった私は、そこに恐《おそろ》しい人の姿を見出した。  私たちの坐《すわ》っている窓の下、映画館の前の鋪道《ほどう》には、ウインドーの光に照されて、一人の男がこちらを見上げているのだった。  モジャモジャの頭髪《とうはつ》、黒眼鏡、両手をオーバーに突《つ》っこんで立っているこの男は——  ああ、これこそ、私があの短文で紹介《しようかい》した、恐《おそ》るべき青髯《あおひげ》の出現ではないか! 「青髯……」  彼女はかすかに呟《つぶや》いて、よろめくように眼を閉じた。躍《おど》り上った私は、ドタドタドタと階段を駈《か》け下り、下の鋪道へ駈け出した。だがそこにはその男は既《すで》にどこかへ姿を消していたのである。  あたりをあちらこちらと、探し廻《まわ》ったが、その男の影《かげ》もなかった。私はあきらめて、もとの二階へ引返したが、そこには和子の前に、一人の眼の鋭《するど》い、一癖《ひとくせ》も二癖もありそうな、中年の男が坐っていた。彼は立ち上って、私の全身を舐《な》めまわすように、じろじろと見廻《みまわ》している。 「主人の正三郎ですわ。こちらは松下先生——」  和子が取りなすように紹介《しようかい》した。私たちはかるく挨拶《あいさつ》をすまして、座についたが、簡単な会話の節々からでも、私は真綿《まわた》に包まれた針のように、どことなく、チクチクと私の心を刺《さ》して来る、何ということのない皮肉な敵意を感じたのである。 「先生……あの男はどうしましたか」  和子が恐《おそろ》しそうにたずねた。 「どうしても見つからないんですよ」  私の言葉が終るか終らぬ前に、 「ワッハッハ、またお前の神経|衰弱《すいじやく》が始った。松下さん、これは青髯《あおひげ》恐怖症《きようふしよう》というやつでしてな、それに似た男を見ると、三日や四日は眠《ねむ》れないのですよ。また例によって、枯尾花《かれおばな》でも見たのでしょう」  この男は、豪快《ごうかい》に笑い飛ばしたのである。だが——あの男の出現は、たしかに私もこの二つの目で見た現実、夢《ゆめ》でも幻《まぼろし》でもなかったのだ。私はその時、何か目に見えない妖鬼《ようき》の霊魂《れいこん》が、虚空《こくう》に哄笑《こうしよう》しているように、思われてならなかったのである。     3  このようにして、遂《つい》に怪奇探偵劇《かいきたんていげき》「青髯の妻」全六景は、上演の運びに至ったのである。  もちろん、私の原作は完膚《かんぷ》なきまでに、補筆改訂《ほひつかいてい》せられたが、これはもとより私の預り知るところではないのである。というものの、その脚本《きやくほん》の俗臭《ぞくしゆう》紛々《ふんぷん》たることは一体どうであろうか——私はもしこれが上演されておったら、恥《はずか》しさに悶死《もんし》したかも知れなかった。  だが幸か不幸か、この脚本は、遂に日の目を見ずに終った。その初日、チェリー春日は、この脚本を地で行って、楽屋《がくや》で惨殺《ざんさつ》されたのである。  初日のこととて、私も作者の義理として、一応楽屋へ顔だけは出すことにした。初日というものは、何や彼や準備がごたごたして、手間がとれるもので、ふだんは十時開場のところが、一時や二時になるのは、普通《ふつう》であるが、ご多分に洩《も》れずここもまた戦場のようなあわただしさ、その隙間《すきま》を縫《ぬ》って、この凶行《きようこう》は行われたのだ。  楽屋では、杉内マネージャー、チェリー春日、河野夫妻が早くから詰《つ》めかけていたが、青髯《あおひげ》に扮《ふん》する光岡竜二だけは、中々姿を見せなかった。一同は大分ヤキモキしていたのだったが、この男は今までも、ぎりぎりに楽屋入りをするのは、くせだったし、第一部のレビューの方には、彼は出演しないのであるから、とりあえず、こちらの幕を上げることにしたのである。  開幕中は相変らず、てんやわんやの騒《さわ》ぎだった。私も自分の作品が、初めて上演されるというので、至極落ちつかず、なじみになった楽屋《がくや》を行ったり来たり、舞台《ぶたい》の袖《そで》からダンサーの一列になって、足を上げるのをのぞいて見たり、照明室へ上って、スポットの様子を聞いて見たり、観客席の入りを心配して見たり、そのようにしてうろうろとしている間に、時間はどんどん過ぎて行った。  楽屋の方へ帰って来ると、今やストリップショーの妙技《みようぎ》を展開して、舞台から帰って来たチェリー春日に、またしてもばったりとぶつかった。 「春日さん、どうもご苦労様、今日はしっかりたのみますよ」 「オーケーよ。ところで青髯《あおひげ》さんはまだ来ないのかしら」  その時だった。薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》の向うから、あの男が姿を現したのは——モシャモシャの頭髪《とうはつ》、黒眼鏡に白い大きなマスク、黒い二重廻《にじゆうまわ》し、正しくこれこそ、今日の主役、青髯の扮装《ふんそう》であった。 「まあ、あの人もう衣裳《いしよう》をつけちゃったわ。先生、ごめんなさいね……」  私の側を離《はな》れて、彼女は廊下を走り去り、男の側へ駈《か》けよると、二人で一しょに自分の部屋《へや》へ入った。  舞台《ぶたい》では今しも、フィナーレの幕が開いて、絢爛《けんらん》たる場面を展開し、舞台裏では次の出し物「青髯」の舞台|装置《そうち》に、上を下への大騒《おおさわ》ぎであって、一人や二人の行動に、注意を向ける者もなかった。  拍手《はくしゆ》の中に幕が降り、私は舞台に立って、大道具の取り附《つ》けを眺《なが》めていたが、その時あわてた様子で、杉内マネージャーが近寄って来た。 「先生、申しわけありませんが、光岡君が来ていないんです。一つ青髯は誰《だれ》かに代役してもらおうと思いますから……」 「冗談《じようだん》じゃないよ。光岡君は来ているはずだよ。僕《ぼく》もさっき、もう青髯の扮装をすまして、春日さんの部屋《へや》へ入って行くのを見たぜ」 「へえ——いつの間に現れたんだろう」  彼が小首をかしげた時、 「マネージャー、代役をやろうにも、肝心《かんじん》の衣裳がありませんぜ」  私の名前も知らない男の俳優が、やって来て抗議《こうぎ》を申しこんだ。 「いや、光岡君は来ているってさ……」 「そんな馬鹿《ばか》な話はありませんよ」 「まあ、みんなで行って見ようよ」  私たちは廊下《ろうか》を歩いて、チェリー春日の部屋の扉《とびら》をノックしたが、中からは何の答えも聞えて来ない。ノッブを廻《まわ》しても、鍵《かぎ》がかかっているのか、扉は開かぬ—— 「春日さん、春日さん……」  ただ聞えるのは、猫《ねこ》のかすかな鳴声ばかり、私は何かしら、不思議な胸騒《むなさわ》ぎを感じ始めた。 「杉内さん、合鍵《あいかぎ》は——」 「事務所にあります」 「それを早く持って来て……」  あわてふためいて、彼の持ち帰った合鍵で私たちは扉を開いた。  だが、これはどうしたことだろう。私たちはこの恐《おそろ》しい光景に戦慄《せんりつ》せずにはおられなかった。  目の前にはチェリー春日が虚空《こくう》をつかみ、苦悶《くもん》の様をまざまざと浮《うか》べて息がたえている。  例のごとく、わずかに一糸をまとった全裸《ぜんら》の姿、その胸には鋭《するど》い両刃《りようば》の短剣《たんけん》が突《つ》き立てられ、畳《たたみ》の上を鮮血《せんけつ》に染めて……  その恐《おそろ》しくも美しい、血みどろの肢体《したい》のまわりをぐるぐると駈《か》けめぐって、狂《くる》わしい叫《さけ》びを上げているのは杉内マネージャーの愛猫《あいびよう》と思われる一匹《ぴき》の大きな漆黒《しつこく》の烏猫《からすねこ》であった。  これが私たちの眼前で実演された、青髯殺人事件の第四幕であった。  私たちはただ呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。だが、これは、今日上演されるはずの、芝居《しばい》ではなかった。完全に私たちの盲点《もうてん》を衝《つ》いた、真に恐《おそ》るべき殺人であった。 「マネージャー、マネージャー、時間ですよ」  駈《か》けこんで来た助手の声に、私たちは初めて我に返ったのだ。 「君……警視庁に電話を。かかったら僕《ぼく》が出る。それから楽屋《がくや》には、誰《だれ》も出入をさせないように……」 「どうしたのです……」  その後から、河野正三郎が部屋《へや》をのぞきこんだが、屍体《したい》を見るや否《いな》や、死人のように顔色を変えた。 「チェリーを……チェリーを……いったい誰がやったんだろう」 「青髯《あおひげ》ですよ」  私の言葉が、皮肉のように聞えたのか、彼は血走った眼で、私の方をきっと睨《にら》んだ。 「そんな……そんなはずはないよ」 「あなたは犯人をご存じなんですか……」 「とんでもない、別にそんなつもりで……」  彼は顔をそらして、額《ひたい》の脂汗《あぶらあせ》を拭《ふ》いていた。  ところが、誰の仕業《しわざ》か知れないが、電話の線は切られていた。やむを得ず、小屋の若い者が附近《ふきん》の交番に走り、直ちに警戒網《けいかいもう》が張られたのである。こう書くと長いようだが、この間には十分も経《た》ってはおらなかったろう。  芝居《しばい》を見ようと入場料を払《はら》って、実際の殺人にあった観客こそ、いい迷惑《めいわく》である。しばらくは足止を食って、このすしづめの小屋に鑵詰《かんづめ》にされたのだから……  兄もさすがに不機嫌《ふきげん》であった。 「何だ、研三、また殺人事件が始ったのか。お前の行く所、必ず殺人ありじゃないか。いったいお前は、俺《おれ》たちと一緒《いつしよ》に、犯罪|捜査《そうさ》をしているつもりなんか。それとも犯人と一緒になって、飯の種に犯罪を製造して歩いているつもりなんか。今度だって、半分の責任はお前にあるんだぞ……」 「まあ、兄さん、そんなに怒《おこ》らなくても……」 「何でもいいから、もう邪魔《じやま》をするなよ」  例によって手固い、バリバリした、兄の捜査が始まった。それによって、次から次へと証拠《しようこ》や手がかりが上って行った。  第一に、私が見たあの青髯《あおひげ》は、どこからどうして現れたのか、ということなのだが、その姿を見たのは、私以外にはなかったので、実に雲をつかむような話であった。ただ裏口の人通りのない通りに面した物置の窓が、一つ中から開いていた。或《あるい》はここから忍《しの》びこんだのかとも思われたが……  光岡竜二の方はどうしたかというと、今朝《けさ》になって小屋から電話がかかって来て、あの「青髯」劇は、警視庁から横槍《よこやり》が入ったので、とりあえず今日だけは休館する。また改めて連絡《れんらく》するからとのことで、久しぶりにのうのうとして、朝から魚釣《さかなつ》りに出かけたという次第であった。誰《だれ》か贋電話《にせでんわ》をかけた者があったのである。  私にも朧《おぼ》ろげに、事件の輪郭《りんかく》はつかめて来た。だまされておいて、このようなことをいうなど、大それた話かも知れないが、この殺人はあの青髯としては、実に間抜《まぬ》けな方法のような気がした。これでは犯人は、いや少くとも共犯者は、この黒猫座《くろねこざ》の座員に、限定されてしまうではないか。彼は何のために、白昼から、このような凶行《きようこう》を行ったのだろう。  間もなく、黒眼鏡と二重廻《にじゆうまわ》しと白マスクが、衣裳部屋《いしようべや》の裏の物置から発見された。それと同時に、チェリーの殺された部屋の鍵《かぎ》が、やはりそこから発見されたのだった。  小屋の者は片っぱしから、一人一人取調べを受けて行った。だがただ一人、河野正三郎だけは、どうしたのか、どこにも姿を見せないのだった。  だが彼は、あの屍体《したい》が発見された時には、たしかに私たちの側にいたのだし、十分後には、このまわり一帯に、非常線が張られたのだから、それを突破《とつぱ》して逃《に》げ出すことは、到底《とうてい》不可能なのだった。とすれば、彼はこの十分間に、恐《おそ》らくあの窓から、逃げ出したのではないかと思われるが、それは一体、何のために……  いや、或《あるい》は彼があの恐《おそろ》しい、青髯《あおひげ》だったのではなかろうか。——このような性的犯罪|狂《きよう》にありがちな、病的な虚栄心《きよえいしん》から、わざとこの脚本《きやくほん》を上演し、私たちの面前で、それを実演して見せたのではないか。  嵐《あらし》のような興奮と戦慄《せんりつ》が、はげしく私の心を揺《ゆす》って過ぎるのだった。  捜査《そうさ》が更《さら》に進むにつれて、いくつかの恐《おそろ》しい事実が明かになって行った。  あの第三の惨劇《さんげき》の行われた時、警視庁では、家の中から、犯人のものと思われる、指紋《しもん》をいくつも採取《さいしゆ》していた。その指紋は、彼のものとぴたりと一致《いつち》するのである。最早|疑惑《ぎわく》の余地はないのだ。彼こそ三人の妻を屠《ほふ》って消え失せた、あの、青髯に違《ちが》いなかったのである。  彼の経歴については、詳細《しようさい》な調査が進められて行ったが、戦争前のことはよく分らなかった。自分で言っていたことによると、戦時中は満洲や中国で仕事をして、相当にまとまった金を作って終戦前に帰国し、その後また終戦後の混乱に乗じて、巨万《きよまん》の金を作ったのだというが、その真偽《しんぎ》は誰《だれ》にも分ることではなかった。  和子と結婚《けつこん》したのは、昨年の夏、まだ一年とはすぎていない。彼女がこの悪魔《あくま》の毒牙《どくが》にかかることを免《まぬが》れたのは、幸運の結果という以外に言葉はないが、しかしこの青髯が自分の犯罪を発見して、警察へ報告したその当人と、こうして結婚していたというのは、私も何だか運命の皮肉《ひにく》さに、驚《おどろ》かずにはおられない。  この脚本《きやくほん》の上演を希望したのも、二人が声を揃《そろ》えてのことだったという。和子の方はその理由も分っていたが、彼の方は……  自分の夫の正体が、青髯《あおひげ》の後身《こうしん》だったという事を知った時、和子は私たちの目の前にがばりと身を投げて、泣きくずれた。 「そんなはずが……とんでもない……あの人があの恐《おそろ》しい青髯だなんて……青髯は黒眼鏡に青い髯のあと……ちがう人です。どこかに間違《まちが》いがあるのです……」  だがこの指紋《しもん》は……そして彼が忽然《こつぜん》と黒猫座《くろねこざ》の楽屋《がくや》から、消え失せた理由は……  彼女がいくら号泣《ごうきゆう》して、事の間違いを訴《うつた》えても、当局の信念を動かすことはできなかった。  だがこの事件の進行に、疑惑《ぎわく》を抱《いだ》いた一人の人間、それは名探偵《めいたんてい》と謳《うた》われた、私の親友、神津恭介であった。  彼は私をつかまえて、次のように語ったのである。 「松下君。今度の事件には、何だか裏がありそうですよ。前の三つの事件では、あれほど念を入れて、屍体《したい》を湮滅《いんめつ》しようとした犯人が、今度はどうして、人の多勢ごたごたと入り乱れている、芝居小屋《しばいごや》の楽屋などで、白昼に人を殺そうという気になったのでしょう。そして彼が犯人だったとしたならば、何のために屍体が発見されてから、のこのこと変装《へんそう》を解いて、現れ出たのでしょう。しかもそのすぐ後で、彼は現場から、あわてて逃《に》げ出しているのですからね。一から十まで、僕《ぼく》には分らぬ事だらけです」 「それでは神津さん、あなたはチェリーを殺した犯人が、別にあると思っておられるのですか」 「そこまではいえませんね」 「でも神津さん。これだけの事は、あなたも否定はなさらないでしょう。あの三番目の犯行の後で、凶行《きようこう》の現場から発見された指紋《しもん》と、彼の指紋とが一致《いつち》する以上、彼と青髯とは同一人物であるということだけは……」 「それはたしかにその通りです。しかし僕の想像に誤りがなかったならば……まあ、それにしても今度だけは、彼も逃《に》げおおせるわけには行きますまい。ただ生きて逮捕《たいほ》されるかどうかは分らないでしょう。僕は彼がもう死んではいないかと思うのですが……」  彼の予言は遂《つい》に適中した。当局が必死の追求を続けて捕《とら》え得たものはただ、彼の冷い死骸《しがい》に過ぎなかったのである。     4  被害者《ひがいしや》、チェリー春日というのは、これはまた相当の、あばずれ女であったらしい。  河野正三郎と関係のあったことは前にもいったが、そればかりではなく、杉内良夫とも変だったというし、光岡竜二とも、とかくの噂《うわさ》があったらしい。  だから彼らの一人が、あの青髯《あおひげ》に変装《へんそう》し、この犯行を行ったとも考えられないことはない。だがこの河野正三郎へかけられた嫌疑《けんぎ》の方は、ほかの誰《だれ》よりも大きかった。  必死にこの青髯を追って、血のにじむような捜査《そうさ》の手がのばされて行った。  そして遂に、三日後になって、彼らしい男が東京|駒込《こまごめ》の、神泉荘《しんせんそう》というホテルに滞在《たいざい》していることが分ったのである。  たちまち拳銃《けんじゆう》を手にした刑事《けいじ》の一行は、その部屋《へや》へ踏《ふ》みこんだが、彼はその時|既《すで》に冷い屍体《したい》となって横たわっていた。  枕元《まくらもと》のテーブルの上には、小さな薬瓶《くすりびん》が一つ、その中には猛毒《もうどく》ストリキニーネを包んだカプセルが二つほど入っていた。追手《おつて》の手が既《すで》に身辺《しんぺん》に延びて来たことを覚って、覚悟《かくご》の自殺をとげたものであろうか。  遺書もなく、といって他殺の痕跡《こんせき》もない。ホテルのお手伝いの話では、何か心臓が苦しいようなことをいって、部屋に閉じこもったきりだったというが、来客は全くなかったのだし、当局としてもやむを得ず、一応この事件はこれで打ち切ることにしたのである。  だが、神津恭介だけは、この解決には満足していなかったのだった。 「松下君、こんな馬鹿《ばか》な話がありますかしら……」  彼は日ごろに似合《にあ》わず、激《はげ》しく興奮していたのである。 「どうしてですか」 「犯罪にも、必ず犯人の性格が反映《はんえい》するものなのですよ。同一人の犯行には、必ず同一の個性があります。この四つの殺人が、彼の手によって行われたものだとしたら、僕《ぼく》は自分の信念に、自信が持てなくなりますね。  初めの三つの殺人を御覧《ごらん》なさい。これは十分に計画され、冷酷《れいこく》に計算された完全犯罪の一つです。それに比べて、今度の犯行は、何と素人《しろうと》じみた、臆病《おくびよう》至極《しごく》な殺人でしょう。  殺しておいて、恐《こわ》くなって逃《に》げ出す、そして捕《つかま》りそうになって自殺する——まともな人間の犯罪とは思えませんよ」 「それではあなたは、まだこの犯罪が続くものだとお考えですか」 「もちろん、その通りです。あなた方は、三度目の殺人の現場にあった指紋《しもん》が、彼の指紋と一致《いつち》したというだけで、彼を青髯《あおひげ》だときめこんでいますが、もし彼が青髯自身でなく、偶然《ぐうぜん》何かの機会に、その家を訪ねた、無関係な来客だったとしたら、そして偶然自分の指紋を残していたとしたならば、あなた方の理論は根本から崩《くず》れてしまうわけですね」 「神津さん……」  私は思わず椅子《いす》を蹴《け》って立ち上った。その通りなのだ。どうしてそんな簡単なことに、今まで気がつかなかったのだろう。 「それにまた、奥《おく》さんの方が、わずかの間でも隣《となり》に暮《くら》しており、あれだけの恐怖《きようふ》と戦慄《せんりつ》を味わった青髯《あおひげ》が、自分の夫だということに気がつかなかったということは、これもまた、実に馬鹿げた、ありそうもないことなのですよ」 「それでは彼はどうして、あの劇場から逃げ出したのでしょう」 「それは僕にもよく分りません。死者は語らず——なのですよ。しかし僕には一つだけ、断言できることがあります。  青髯は必ずいま一度、この世に現れて来ます。そして今度、彼がその新しい犠牲《ぎせい》を狙《ねら》うのは、河野未亡人、和子さんに違《ちが》いないのです」  彼の言葉は私には、動かし難い強烈《きようれつ》な圧力をもって迫《せま》って来るのだった。 「どうしてですか……」 「まだ分りませんか……」  彼は憐《あわ》れむような眼で、私を見つめた。 「青髯がその犯行の現場を目撃《もくげき》した女を、そのまま生かしておくと思うのですか。まあ、あの方にご用心なさるよう、ご忠告なさった方がよいでしょう。青髯はいつどこから、現れ出ないとも限りませんからね……」  何となく、取りつく島もないように、突放《つつぱな》した彼の態度だったが、これもたしかに一理はあった。私は早速、その足で彼女の所をたずねて行ったのである。  だがその途中《とちゆう》、私はまたあの恐《おそろ》しい男の姿を見たのだった。  彼女の家の玄関《げんかん》の呼鈴《よびりん》を押《お》そうと思って立ち止った時、私は何か知れない不安を感じて、はっと後を振《ふ》り返ったが、そこには何と、道を隔《へだ》てた向うの街燈《がいとう》の光に照されて、黒眼鏡の男がたたずんで、こちらを眺《なが》めていたではないか。 「待て——」  私は思わず躍《おど》り上ると、その男の後を追いかけた。だが一瞬《いつしゆん》にして彼は闇黒《あんこく》の中に、いずこへともなく走り去り、とても私の足には及《およ》ばなかった。  私はいままで、浅草で私たちを見つめていたあの黒眼鏡の男は、河野正三郎の変装《へんそう》ではないかと思っていた。  だが彼のすでに死んでしまった今となって、またもこの男が現れるとは……それにまた、神津恭介のあのような言葉もあるではないか——私の心は、激《はげ》しい興奮に波打っていた。  玄関に立ってふたたび呼鈴を押《お》し、私は河野家の応接室に通されたが、出て来た彼女の姿というのは、喪中《もちゆう》に似合わず凄艶《せいえん》だった。 「松下先生、先日はどうも、この度はとんだご迷惑《めいわく》をおかけいたしまして……」 「いいえ、ご主人のことは、誠にご愁傷《しゆうしよう》に存じております。ですが奥《おく》さん、今日のお話というのは、喜んでいただけるような、またご心配をおかけするような、妙《みよう》なお話なのですが……」  このような前置をした上で、私は彼女に今日の神津恭介の言葉と、今の怪《あや》しい男のことを伝えていったが、その美しい顔からは見る間にさっと血が引いて、全身は木の葉のように震《ふる》えていた。 「まあ、恐《おそろ》しい……わたくしを、あの青髯《あおひげ》が狙《ねら》っているなんて……主人が青髯でなかったということだけは、わたくしも嬉《うれ》しいんですけれど……こわいわ。わたくし一体どうすればよろしいんでしょう」 「まあ、十分ご警戒《けいかい》なさるんですね。あんな種類の犯罪者というものは、次第に凶悪性《きようあくせい》を増して来るものですから。あの黒猫座《くろねこざ》の殺人にしたところで、実に大胆不敵《だいたんふてき》な犯行なんですからね」 「わたくし、あの浅草で会った男は、他人の空似《そらに》かと思っていましたが、それでは……わたしはたしかに狙《ねら》われているんですのね」 「お気の毒ですが、どうもそうとしか思えません」 「どうしたら、よろしいんでしょう。わたくしどこかへ逃《に》げ出しますわ」 「どうもこう申しては何ですけれど、それではかえって危険かも知れませんよ」 「いったい、それじゃどうすればよいんですの……」  彼女はだまって、部屋《へや》の中をしばらく歩き廻《まわ》っていた。 「先生……」  突然《とつぜん》ふり返って、彼女はいい出した。 「先生、わたくしの護衛《ごえい》をしばらくしていただけません。ねえ、ご迷惑《めいわく》でしょうが、よろしいでしょう。ね」  からみつくような視線の中に燃えているものは、爛熟《らんじゆく》し切った中年の女の媚態《びたい》だった。  恥《はずか》しい話であるが、私はその誘惑《ゆうわく》には勝てなかった。自分の良心と、はげしい闘争《とうそう》を続けること数十分、遂《つい》に私はその新しい使命を受諾《じゆだく》せずにはおられなかった。  夜おそく、私は彼女の家から暇《いとま》を告げたが、玄関《げんかん》を出るなり私はまたしても、あの黒眼鏡の男が向うにたたずんでいるのを見た。  今度こそは——  私が追いかける気配《けはい》を、見せるか見せない中に、またも相手は身をひるがえして、闇黒《あんこく》の中に走り去ってしまったのだ。  何というすばしっこい相手だろう——  私が恐《おそ》る恐る闇《やみ》の中をうかがっていた時だった。背後からぽんと、私の肩《かた》を叩《たた》いた者があった。まるで氷にでも触《さわ》られたように、ぞっとして振《ふ》り返ると、そこに立っていたのは、何と——神津恭介ではなかったか。  夜目にもしるく、美しい横顔に、かすかな微笑《びしよう》を浮《うか》べながら、彼は悠然《ゆうぜん》として私を見つめていた。 「松下君、君もあの男を見ましたか」 「神津さん。あなたのご明察《めいさつ》には全く驚《おどろ》きましたよ。たしかに青髯《あおひげ》は、この世に生存していたのですね」 「今のが、幽霊《ゆうれい》でもない限りはね……」  私たちは連れ立って、電車通へ帰って来た。だが彼の顔は晴々と冴《さ》え渡《わた》り、何の苦慮《くりよ》の色をも止めてはおらなかった。 「神津さん、あなたは何か、お心当りがあったのですか」 「ありますよ。明日|僕《あすぼく》は、この事件の犯人を指摘《してき》してお目にかけられるでしょう」 「それはどうして……」 「明日|黒猫座《くろねこざ》に今一度、青髯の舞台稽古《ぶたいげいこ》をしてもらうように、お兄さんにお話しておきました。あなたも、河野さんの奥《おく》さんとご一緒《いつしよ》にいらっしゃい。面白い場面が見られるでしょう……」  謎《なぞ》のような一言を残して、彼は私に別れを告げた。     5  その翌日、私は彼女を護衛して、黒猫座《くろねこざ》へと訪ねて行った。  兄に理由をたずねたところ、いつまでも上演を禁止しておくわけにも行かないし、神津さんの言葉もあるので、一度舞台稽古に立ち合った上で、上演を許可してもよいだろうときまったのだよと、至極《しごく》気のないような返事だったが、それでもさすがに、この場に顔だけは見せたのである。  神津恭介は、何か曰《いわ》くありげに、微笑《びしよう》していた。 「松下君、君には申しわけありませんが、君の脚本《きやくほん》に、僕《ぼく》が大分手を加えましたよ」 「どうなすったのです」  私は驚《おどろ》いてしまった。彼が自分でこんなものの筆をとるとは、これまであった例《ため》しがなかったのだから…… 「いや。今度の事件を取り入れた方が、お客には受けると、マネージャーがいうものですからね」  私には、彼の真意が分らなかった。  がらりと空いた客席には、神津恭介と兄、河野未亡人と私、それから杉内マネージャーと劇団の関係者が並《なら》んで、いよいよ舞台稽古《ぶたいげいこ》の幕が上った。  前の脚本は、物凄《ものすご》いまでに変更されていた。第一の殺人——第一場と第二場は、簡単なアナウンスで梗概《こうがい》が説明され、いきなり第一場が軽井沢の山荘《さんそう》の場となって、青髯《あおひげ》に扮《ふん》した光岡竜二が登場する。あたりを見廻《みまわ》して、不気味《ぶきみ》に笑う思い入れよろしく、上手《かみて》に声をかけて、女の名を呼ぶと、丸顔の金縁《きんぶち》の眼鏡を掛けた、奥様《おくさま》風の女優が飛び出して来た。 「ねえ、あなた、こんな淋《さび》しいところ、もうあきあきしてよ。もっと刺戟《しげき》の強い、都会に住みたいと思わなくって」 「そうだね。もう秋も近いことだし、いっそ東京へ帰ろうか」 「東京——いいわね。わたしも一度、東京に住んで見たいと思っていたわ。東京で、二人きりの生活——いいでしょうね」  などという、せりふの受け渡《わた》しがあって、二人が抱《だ》きあったと思うと、暗転——中幕が降りて、場面は警察署の場面となる。  どうも何だか調子が変であった。前の脚本ではたしかこの辺で、殺しの場面があったのだが、どうしてカットされたのかしら。  こう思っている中に、警察署へ、尾島|大尉《たいい》がたずねて来る場面となったが、私はますます首をひねらずにはおられなかった。  この尾島大尉に扮《ふん》する役者は、私のこれまで全然見たことのない俳優であった。ちっとも役者臭《くさ》くない、それでいて海軍士官らしい雰囲気《ふんいき》がにじみ出ていて、実に巧《たく》まざる名演技であった。 「中々うまい役者を掘《ほ》り出しましたね。一体、誰《だれ》の紹介《しようかい》ですか」  私は側の杉内マネージャーにたずねた。 「神津さんのご紹介ですよ。名前はまだいわない約束《やくそく》です」  いよいよ出《い》でて、いよいよ奇怪《きかい》な出来事である。脚本《きやくほん》を書くだけならばともかくも、役者まで、どこからか探して来るとはどうしたことか、私が呆気《あつけ》に取られている間に、舞台《ぶたい》は三転して、東京の場、第三の殺人となった。  上手《かみて》は青髯《あおひげ》の家、下手《しもて》は隣《となり》の家である。  半年後、空襲直後の東京にて——  という簡単なアナウンスがあって、やがて青髯と女が姿を現したが、何と、これはあまり何でもひどいではないか——  前の場面、軽井沢の山荘《さんそう》の場と、女優の方は全然同一だったのである。  いくら黒猫座《くろねこざ》が、女優|払底《ふつてい》とはいったところで、あれだけ女がウジャウジャしているのだから、これは一体どうしたことだ。  まるで二人が、軽井沢から東京へ移って来て、そのまま結婚《けつこん》生活を続けているという印象しか与《あた》えないではないか。これでは完全な失敗である!  私は思わず、杉内マネージャーに食ってかかろうとした。だが神津恭介は、唇《くちびる》に指を一本あてて、私の言葉を抑《おさ》えた。  女が上手《かみて》に退場すると、下手《しもて》から一人の女が登場する。ここに坐《すわ》っている、河野和子夫人の前身であるが——  私はもうこれ以上、我慢《がまん》ができなくなってしまった。扮装《ふんそう》こそ変えているが、この女こそ、またしても、いま上手に消えた女優と同一人物なのだったから……  一人二役でも、いい加減腹にすえかねているところなのに、一人三役をやらせるとは、原作者を馬鹿《ばか》にするにも、少しは程があろうというもの。これが神津恭介の指定だとすれば、彼は少くとも、この道に関するかぎりは、白痴《はくち》か低脳であるに違《ちが》いない。  しかし彼の自信満々たる横顔には、私の憤怒《ふんぬ》を鎮《しず》める何かがあった。  その女は家主らしい男と、家を借りる交渉《こうしよう》をしばらくやっていたが、一人になったと思うと、途端《とたん》に走りよって隣の家の様子をうかがい始めた。中には青髯《あおひげ》がただ一人だけ、だまって坐《すわ》っているばかりなのだ。  つづいて第四場——ここでは、殺されたチェリー春日が半裸《はんら》となって、青髯に切りきざまれる凄愴《せいそう》な場面が展開されるはずだった。それを隣の女がのぞいて気を失うという、この劇のクライマックスとなる場面なのに、一人三役などという、無茶苦茶な演出をしてしまったのでは、一体どうしてこの場をごまかそうというのだろうか。私は憤慨《ふんがい》を通り越《こ》して、かえって心配になって来たのである。  ところがこの辺は案外心得たもの、青髯の家の方には、黒幕を引いて、家の内部は見せないのである。なるほどこれでは、一人三役の欠点はごまかされるかも知れないが、劇の盛《も》り上りは全然なってはいない。それくらいなら吹《ふ》き替《か》えを使えばよいのに……  家の中をうかがっていた女は、あわてて姿を消すと、警官を連れてふたたび登場した。  二人がばらばらと、家の中にふみこむと、途端《とたん》に黒幕が引かれて、家の中が見える。そこには畳《たたみ》の上に、日本刀が一ふり、斜《ななめ》に突《つ》き立てられているばかり、もちろん屍体《したい》などはどこにもなかった。 「まあ、さっきの屍体は……」 「うーむ、なるほど、物凄《ものすご》い血のあとだね。さわっちゃいかん。指紋《しもん》が消えるから、さわっちゃいかんよ」  などというせりふのやりとりがあって、第四場の幕が下りる——  あまりにも訳の分らぬ芝居《しばい》であった。だが私はこの馬鹿《ばか》げた筋の運びの中に、何か恐《おそろ》しい神津恭介の意図を、感じないではおられなかった。  第五場——街頭、盛装《せいそう》した河野和子が通り過ぎる。その後から、黒眼鏡にモシャモシャした頭髪《とうはつ》、あの青髯《あおひげ》が現れた。いぶかしげに女の跡《あと》を見送って、その黒眼鏡を取り去ったが、それは何と、先の尾島|大尉《たいい》と同一人物であったのだ。 「姉さんが生きていたとは——」  私の血を凍《こお》らせるせりふが、その男の口を飛び出した。と思うと、途端《とたん》に神津恭介が自分の椅子《いす》を蹴《け》って立ち上った。 「皆《みな》さん。長々と詰《つま》らぬ芝居《しばい》をお目にかけました。しかしお芝居としては、興味がないかも知れませんが、これがこの事件の真相なのです。河野和子は、尾島冴子と同一人物なのですよ」  私の隣に坐《すわ》っていた、本物の河野和子の顔はいま、さながら悪鬼《あつき》の形相《ぎようそう》だった。  私の膝《ひざ》の上を飛鳥のように飛び越《こ》えると、廊下《ろうか》へ走り去ろうとしたが、途端《とたん》に飛びついた神津恭介が、その女豹《めひよう》のような体を、床《ゆか》の上にねじり倒《たお》した。  彼女のしなやかな手には、小型の拳銃《けんじゆう》が握《にぎ》りしめられ、しばらくはそれを奪《うば》い合って、恭介と彼女との必死の争闘《そうとう》。  だがそれも長くは続かなかった。我に返って走り寄った兄は、その手から拳銃を奪い取ったのだ。 「姉さん、まさか姉さんが、こんな恐《おそろ》しい人だとは思わなかった……」  いつの間にか、舞台《ぶたい》を降りていた、あの新顔の俳優が、血の出るような悲壮《ひそう》な言葉を吐《は》き出した。 「二郎……お前はわたしを裏切ったのね」 「姉さん。僕は姉さんが生きているとは思わなかった。青髯《あおひげ》に殺されてしまったとばかり思っていたんだが、まさか生きて、外の女に入れかわって、人を三人も殺していようとは……それをたしかめたいばかりに、こうして、青髯のようななりをして、姉さんの跡《あと》をつけたりしたのだが……この上は、姉さん、せめて最後だけでも潔《いさぎよ》く……」 「ホホ……また、お前のお説教が始ったのね」  彼女は狂《くる》わしげに、全身を震《ふる》わせながら、哄笑《こうしよう》していた。 「松下先生、今こそわたしの正体がお分りになって……わたしはかまきりの性を持って生れて来た女なのよ。男という男をだまして、金を巻き上げて、なぶり殺しにするのが、わたしの持って生れた天性なんだわ。  あの青髯だって、わたしにはかなわなかった。あの男も、前の良人《おつと》も、河野だって、一度用がすめば、もう憎《にく》くて憎くて殺してしまわなければ、わたしの胸はおさまらないんだ。お前さんだって、もう少し時間があったならば、あいつらの跡《あと》を追わせてやったのに……  何を、びっくりしてんのさ。これが自然界の法則だなんて、気の利《き》いたせりふを書き立てたのは、お前さんだったろうにさ……」  私は思わず眼を蔽《おお》わずにはおられなかった。この美女が、このような吸血鬼《きゆうけつき》の本性を曝露《ばくろ》するとは、私は大地さえ、自分の足下で揺《ゆら》いで行くように感じられたのである。 「さあ、もう行くんだ」  兄が静かに肩《かた》を叩《たた》いた。 「ええ、行きますわ。わたしを待っている火の中へ。わたしは結局、地獄《じごく》でなければ住むことのできない女だったのよ」  悲壮《ひそう》な叫《さけ》びとともに、一瞬《いつしゆん》、彼女の体は、石のように床《ゆか》の上に崩折《くずお》れて行った。その瞼《まぶた》も唇《くちびる》も、最早二度とは開かなかった。 「今度こそ、覚悟の自殺だったのですね」  神津恭介も、感慨《かんがい》深そうな、静かな一語を洩《も》らしたのだった。 「僕《ぼく》は初めから、この草場和子という女には、何か曰《いわ》くがあるのではないかと思っていました……」  恭介は、兄と私とを前にして語り始めた。 「殺人の現場を隙見《すきみ》して、気を失う。その間に屍体《したい》も犯人も姿を消す——実に奇抜《きばつ》な着想でした。だが前の二つの事件が頭にこびりついていた当局としては、その裏の裏まで、考えて見ようとはしなかったのです。  だが僕はあの記録を読んでいて、実際の殺人は、別な場所で行われたので、あそこはただ装《よそお》われた殺人現場、ただ凶器《きようき》を放置し、血にまみれた跡《あと》だけを残し、自らそれを目撃《もくげき》したと主張することによって、青髯《あおひげ》がまたも妻を屠《ほふ》って消え失せたと、思いこませる方法にすぎなかったのではないかと考えたのです。  一体我々は今まで、前の三つの事件は、青髯が三人の女を殺したものとばかり、考えて過していましたが、その屍体らしいものが発見されたのは、第一の殺人の場合だけなのですからね……第二の事件では、殺人が行われたという証拠《しようこ》は何もありません。第三の事件では、たった一人の目撃者《もくげきしや》の証人があっただけなのです。  第一の殺人は、たしかに青髯と称する男の犯行だったろうと僕は思います。だが彼が第二の犠牲《ぎせい》として選んだのは、何と自分以上の極悪人《ごくあくにん》、かまきりの生れかわりのような女だったのですよ。  彼女の最初の夫の死因《しいん》に対してさえ、僕は疑念を持たずにはおられません。だがそれまでは今となっては到底《とうてい》分ることではないのです。  青髯《あおひげ》も、自分の妻の正体を知って、さすがに慄然《りつぜん》としたのでしょう。いや、かえって、これこそ自分の妻としては、この上もなくたのもしい相手だと、思ったのかも知れません。  何かの理由で、彼らは軽井沢の生活を棄《す》て、東京へ帰って来たのです。  だが女の方は、もうこの男に飽《あ》いていました。自分の性慾《せいよく》と物慾が満された今となっては、彼女にはこの青髯を殺す以外に、道は残されておらなかったのです。  彼女は草場和子と偽名《ぎめい》して、自分らの隣《となり》の家を借りました。本当の自分は病身で寝《ね》てばかりいると見せかけて、この巧妙《こうみよう》な一人二役を、まんまとやってのけたのです。  戦時中で、人心が浮足立《うきあしだ》って、少しも落着かないころでしたから、このトリックもまんまと成功したのでしょう。  彼女は時来るのを見はからって、あの男、河野正三郎を共犯にだきこみ、二人で青髯をどこかへ誘《さそ》い出し、惨殺《ざんさつ》してその屍体《したい》を処分して、血液だけを持ち帰り、殺人の跡《あと》らしく装《よそお》って、自分がその犯行を目撃《もくげき》したと主張して、またも青髯が、第三の妻を殺して逃《に》げ失せたと、思わせることに成功したのでした。  尾島冴子という女は、これで完全に、この地上から抹殺《まつさつ》されました。彼女はこれからは、草場和子として生きて行けば、それでよかったのです。  空襲《くうしゆう》と終戦のどさくさを利用して、この手品は見事に成功を収めました。  だがこの女は、またしても、今度の良人《おつと》にも飽《あ》きはじめました。そこへちょうど、チェリー春日とのトラブルが起り、松下君の記録が発表されたのです。彼女はひそかに、悪魔《あくま》の笑いを浮《うか》べたのでしょう。この機会を利用して、男と女と、一石《いつせき》に二鳥《にちよう》を屠《ほふ》ろうとして……  このようにして、松下君の脚本《きやくほん》が上演されるように運びをつけておいて、初日のどさくさに乗じて、光岡君に偽《にせ》電話をかけ、自分で青髯の扮装《ふんそう》をして、女を殺したのです。  第三の殺人では、女が男を殺したのです。今度の殺人では、女が女を殺したのでした。  だがこのようにして、恋人《こいびと》が殺されたことを知った、河野正三郎の方は、心から震《ふる》え上ってしまったのです。  薄々《うすうす》は、彼も犯人に見当はついていました。だが今度こそ、自分の番だと思ったのか、それとも今度の殺人によって、旧悪が曝露《ばくろ》するとでも思ったのか、彼はあわてて、この現場から逃《に》げ出しました。  だが彼女の計画は、更《さら》に悪辣《あくらつ》なものでした。  良人が心臓病の発作《ほつさ》に悩《なや》まされていることを知っていた彼女は、その持薬のカプセルの中に、ストリキニーネを混入しておったのです。このようにして、一石に二鳥を屠《ほふ》ろうとする、彼女の計画は見事に演出されたのです。  だがこのように、水も洩《も》らさぬ計画にも、天の配剤《はいざい》というものがありました。  一時戦死を伝えられた、尾島|大尉《たいい》が復員して、この東京へ帰って来ていたのです。  戦争で眼を負傷して黒眼鏡をかけていましたが、浅草で姉と思われる女を発見して、驚愕《きようがく》し、その後たえず、彼女の跡《あと》をつけていたのでした。  これが松下君の発見した青髯《あおひげ》なのです。  しかしこの惨劇《さんげき》は避《さ》けられませんでした。二、三日|煩悶《はんもん》し、懊悩《おうのう》して過した彼は、遂《つい》に決心して、僕《ぼく》の所を訪ねて来られました。  僕の疑問も、初めてこれで氷解しました。僕はあの脚本《きやくほん》を、実際の事件にあてはめて書き直し、彼女に心理的な打撃《だげき》を与《あた》えることに成功したのです……  恐《おそろ》しい女でした。何千万人に一人、何十年に一人、生れるか生れないか、知れない女に違《ちが》いないでしょうが、やはりかまきりの本能は、人間の心の中にも、どこかに眠《ねむ》っているものですね……」  この恐しい真相に、私たちは凍《こお》ったように、しばらく黙《だま》って坐《すわ》っていた。  やがて彼は立ち上って、帽子《ぼうし》を取り上げた。 「神津さん、一つだけ分らないことが……一体、あの女は本当に自殺を初めから計画しておったのでしょうかしら……」  神津恭介は、いつものおだやかな微笑《びしよう》を、私の顔にそそいだ。 「松下君、武士道は過去の遺物《いぶつ》とはなりましたが、僕《ぼく》は一つだけ、あの中に貴いものを感じています。それは、家門の名を惜《お》しむということなのですよ。  これはお兄さんにはないしょですが、僕は君たちと同様に、尾島さんが最後に、彼女の目の前に、毒薬のカプセルを投げ棄《す》てたことだけは、全然気づかずにおったのでした……」  彼は踵《きびす》をかえして、私たちの前から立ち去って行った。  その姿を見送って、呆然《ぼうぜん》とたたずんでいた私の目に写ったものは、妖女《ようじよ》のように凄艶《せいえん》な和子の微笑《びしよう》……それとともに、大きなはさみをふりかざして、私に襲《おそ》いかかって来ようとする、人間ほどの大きさの、一|匹《ぴき》のかまきりの姿であった。  恐《おそろ》しき毒     1  それはたしかに、最も完全な、殺人方法の一つであった。少くとも久尾時夫《ひさおときお》には、それ以上の方法は考えられなかった。  人には誰《だれ》しも、他の人間の血を見たいという、熾烈《しれつ》な本能が、胸中深くかくされて眠《ねむ》っている。  多くの場合は、良心の呵責《かしやく》が、その行動を抑制《よくせい》している。だがある種類の人々には、その良心が麻痺《まひ》し欠如《けつじよ》して、その力を失っている場合も少くない。彼はたしかにその一人に属するのだった。  しかしこのような人々にも、刑罰《けいばつ》という法の制裁だけは、やはり大きな力をもって、心にのしかかっている。もしそれによって、処罰を受けることさえなければ、いかに多くの人々が、その眠っている本能を、呼び起そうとするだろうか。彼もたしかに、その一人だった。  したがって、法律の裁きの手を免《まぬが》れるために、彼の考え出した方法は、実に隠微繊細《いんびせんさい》な計画だった。  犯罪者に特有の、剃刀《かみそり》のような神経と、狂人《きようじん》のような鋭利《えいり》な頭脳で、彼はあらゆる殺人方法を分析《ぶんせき》しつくし、その大半はどうしても、司直の手を逃《のが》れるわけには、行かないことを知った。  探偵《たんてい》小説家は、密室の殺人をおこがましくも、完全犯罪と呼んでいる。しかしそのような末端《まつたん》の技巧《ぎこう》に工夫を凝《こ》らすことは単に発覚の時間を長びかす程度の、無意味な努力に過ぎないのである。  完全犯罪とは、その犯罪が行われたということが、誰にも看破出来ないような、犯罪でなければならない——  それが彼の不動の信念だった。殺人の場合には、自殺か過失死を、装《よそお》わせることによって、それは成功するのであるが、自殺を装わせることには、多くの場合、非常な危険が伴《ともな》っている。鋭《するど》い本能から、彼はこの方法を避《さ》けたのである。  過失死を装わせるのにも、いろいろの方法があるが、彼は不思議なほどに、潔癖《けつぺき》であり臆病《おくびよう》だった。生物学を専攻《せんこう》した学徒のくせに、人の屍体《したい》を自分の目で見ることには堪《た》えられなかった。  彼はその方法として、毒殺を選んだ。  しかしそれは、容易に痕跡《こんせき》の判明する、毒物であってはならない。砒素《ひそ》や青酸カリやストリキニーネなどを使用することは、まことに愚者《ぐしや》の方法に違《ちが》いない。  誰《だれ》にもその痕跡が分らない毒物、そして絶対確実に人の命を奪《うば》い、しかもそれが過失による中毒死と、誤認されるような毒物、それを彼は自分の専門知識によって、遂《つい》に発見したのである。  それはあさりの毒を利用する方法であった。むかしから松島湾《まつしまわん》の毒あさり、という言葉があるくらい、この貝は猛烈《もうれつ》な毒素を分泌《ぶんぴ》することが知られている。最近では、浜名湖《はまなこ》のあさりで、有名な中毒事件が起っていた。  その毒素がいかなるものか、それは現在の科学では、まだ研究が完成していなかった。しかしその毒素を、普通《ふつう》のあさりに発生させることは、簡単に人の手で出来るのだった。  あさりを料理する時、この貝の中にはよく細かな砂粒が含《ふく》まれていることに気がつくが、これは他の貝、たとえば蛤《はまぐり》などにはほとんど見られないことなのである。  そして浜名湖の場合でも、湖の貝全体に一年中毒性があるのではなく、ある時期にある場所である条件の下に、毒素が発生するのであり、その同じ場所から採取した、蛤などには、全然毒性が発見されなかった。  この点に気づいた、厚生省の衛生試験所では、あさりを人工|養殖《ようしよく》し、その貝殻《かいがら》の中に、人の手でたえず砂粒を含《ふく》ませ、遂に貝から毒素を分泌させることに、成功したのである。  彼はこの報告を、専門の学術雑誌で目にして、思わず手を打って喜んだのであった。  彼の職業は水産技師であったから、あさりの養殖などには、困難を感じなかったしそのあさりに、毒性があるなどと、誰《だれ》が思おうか。嗅覚《きゆうかく》の鋭敏《えいびん》な、犬や猫《ねこ》でさえ、この毒あさりには、全然気がつかず、一度に血を吐《は》いて、参ってしまうというのだから……  もちろん、屍体《したい》の解剖《かいぼう》は行われるだろう。  しかしその結果は、あさりの毒による中毒死と決定されるにきまっているのだ。外に犠牲者《ぎせいしや》が出ていなければ、警察でも一応の疑問は起すに違《ちが》いない。しかしそのかげに、人間の手が動いていると、誰が思えるだろうか。  彼は遂《つい》に、かねて心に抱《いだ》いていた、恐《おそろ》しい殺人の意図を、この方法で実行に移そうと、決心したのである。  彼が殺そうと決心した相手は、従妹《いとこ》の漆原《うるしばら》貴美子と、その良人《おつと》の京作だった。  貴美子は巨万《きよまん》の財産を擁《よう》する、漆原家の一人|娘《むすめ》だった。彼とはあどけない少女のころから、兄妹《きようだい》のようにして育った仲で、親同士の話し合いで、彼は漆原家の養子に迎《むか》えられることに、略々《ほぼ》諒解《りようかい》が出来ていた。彼は貴美子に、火のような愛情を持っていたのだし、貴美子も彼を愛していると、彼は信じて疑わなかった。しかし貴美子は、最後の土壇場《どたんば》になって、彼との結婚《けつこん》をきらい今の良人、京作を婿《むこ》に迎えたのである。  蛇《へび》のような、冷血な陰性《いんせい》の執念《しゆうねん》から、彼は表面には、何の怒《いか》りも興奮も見せなかった。しかしこの二人に対する復讐《ふくしゆう》の一念はそれ以来、数年間というものは、烙印《らくいん》のように、彼の心に焼きついて離《はな》れなかった。  その上に、彼ら二人が死亡するならば、漆原家の巨大《きよだい》な財産に、彼は最近親としての、強固な発言権を持つことが出来る。わずかの薄給《はつきゆう》で、ぼろ靴《ぐつ》の修繕《しゆうぜん》も出来ず、筍《たけのこ》生活にあえいで、自分の才能を、伸《の》ばす余裕《よゆう》もないでいるというのに、彼らは飽食暖衣《ほうしよくだんい》して、無為《むい》徒食の生活を送っている。これは何と矛盾《むじゆん》した社会悪なのだろうか。もし自分の手に、その財産の十分の一でも、帰することになったなら、もっと有意義な使い方が出来るではないか——  彼の狂《くる》いかけた頭脳には、それが当然至極のことに、思われてならなかったのである。     2  彼は変名で、ある家の離《はな》れを借りた。権利金や部屋代《へやだい》などということは、現在の彼にとっては、相当大きな負担だったが、彼はこの計画の完成には、どんな犠牲《ぎせい》をもいとわなかった。  その部屋に水槽《すいそう》を運んで、彼はあさりの養殖《ようしよく》を始めた。家人は怪訝《けげん》な眼で、それを見守っていたのだが、彼の学者的な風采《ふうさい》がこの奇行《きこう》を蔽《おお》いかくして、学者というものはとかく変っているものだから、と、しまいには馴《な》れて一言もいわなくなった。  毎日役所の退《ひ》けた後で、彼はその部屋を訪れ、解剖用《かいぼうよう》のメスで貝の口をこじ開け、小さな砂粒を一つかみずつ、貝の中にと含《ふく》ませた。白い小さな貝の足は、苦痛に堪《た》えないもののように、貝殻《かいがら》の中で蠕動《ぜんどう》していた。その冷い、ぬらぬらした触覚《しよつかく》は、何か彼の心に快かった。  彼は一握《ひとにぎり》の貝を、自分の頬《ほお》に押《お》しあてて、奇妙《きみよう》な愛撫《あいぶ》をつづけ、遂《つい》には狂《くる》わしい涙《なみだ》をこぼしていたのである。  貝は日増しに、恐《おそろ》しい毒性を示して来た。彼は友人の誰彼《だれかれ》の家を訪れ、犬や猫《ねこ》にそのあさりを食わして、ひそかに動物実験を行っていたのである。  その結果は、百に一つの失敗もなかった。このようにして、彼の恐しい準備は整ったのである。  貴美子の嗜好《しこう》については、彼には十分の知識があった。貝はその大の好物——彼らがこれを口にすることは疑いない。始めから終りまで、彼の計画には、寸分の狂《くる》いもなかった。  ただ彼が、いくらか心に咎《とが》めたのは、漆原家に仕えている、二人のお手伝いのことであった。この女たちを、死出の道づれにすることは、さすがの彼にも、何となく可哀《かわい》そうに思われた。しかしこの殺人の、完璧《かんぺき》な演出を期するには、そんな人並《ひとなみ》の感傷に耽《ふけ》ってはおられない。彼は最後の決心を固め心の剣《けん》を柔《やわら》かな顔の微笑《びしよう》で包みつつ、漆原家へ訪れて行った。  二人は彼の恐《おそろ》しい企《くわだ》てには、全然気がつかず、喜んで彼を迎《むか》えた。 「久尾君、どうしてこのごろは、遊びに来てくれないんだね。家内がとても淋《さび》しがっているよ」  京作は、好物のウイスキーのグラスを干《ほ》しながら、彼にたずねた。 「ほんとうよ。わたしたちをお見棄《みす》てになって。時夫さん、外にいいお方がお出来になったんだろうなんて、主人とも話しておりましたのよ」  貴美子が傍《そば》から、美しく微笑《ほほえ》んでいた。  彼はその美しさをば、直視する勇気がなかった。当然彼の腕に抱《だ》かれているはずの女の、単なる幼な友達の彼に示す友情の表現——それは彼には、大きな侮辱《ぶじよく》のように感じられた。しかしそれももう、長いことはないのだぞ。彼は胸中に悪魔《あくま》の笑を浮《うか》べた。 「いや、君たちと違《ちが》って、貧乏暇《びんぼうひま》なしでね。ところで君の方は、その後|忙《いそが》しいかね」 「うん、相変らずごたごたと追い廻《まわ》されていてね。明日も仙台に出張で、二十三日のお昼に帰って来るよ」  仙台——その二字は、彼には悪魔の囁《ささや》きであった。 「仙台といえば、あの辺のあさりは、今時分は、実にうまいのだよ。ちょうど今がしゅんでね。ちょっとあんなにうまいものは、ないかも知れないね……」  彼の予期していた反応は、たちまち貴美子に現れた。 「ほんとうなの。ねえあなた。わたし貝が大好きなんだから、仙台からあさりをお土産に、買って来て下さらない」 「うん、そのくらいお安いご注文だよ」 「お忘れになっちゃ、だめよ」  京作はポケットのメモに、細《こまか》く何かを書きこんでいた。それから三人が何を話したか、彼には最早何の記憶《きおく》もなかった。     3  そのようにして、二十三日の朝が来た。彼は冷血動物の興奮を感じつつ、漆原家を訪れた。彼の手には、あの毒あさりの一網《ひとあみ》が、しっかりと握られていたのである。 「奥《おく》さん、はいお土産。ちょっとよそから貰《もら》ったんですが、奥さんは貝がお好きだから、持って上りましたよ」 「まあ、それはすみませんでしたわね。早速今晩いただきますわ。十時ごろには、主人も帰ってまいりますし、日曜ですから、今日はごゆっくりなさいませよ。ご一緒《いつしよ》にご夕飯でも、召上《めしあが》っていらっしゃいません」  とんでもない——彼は他に約束《やくそく》があるからと、振り切って漆原家を後にした。しかし彼は、自分のシガレットケースを、応接室の椅子《いす》のクッションの下に、かくしておくことを忘れなかった。  正午過ぎに、彼は予定の行動通り、漆原家に電話をかけた。電話に出て来たのは貴美子だった。 「あの、奥《おく》さん、実は僕《ぼく》、今日おうかがいしました時に、お宅にシガレットケースを忘れたんですがね、どこかにありませんか」 「時夫さんも忘れん坊《ぼう》ね。ちゃんと残っておりましたわ。大事に取ってございますから、ご心配なく……」 「それでは、今夜でもいただきに上りますよ。ご主人はお帰りになりましたか」 「ええ、やっといま着いたところです。約束通りお土産を持って……」 「あさりですか」 「ええそうよ。まるであさりの洪水《こうずい》ですわ。食べきれるかしら……」  彼は心中に、快い戦慄《せんりつ》を感じた。  その夜七時ごろ、彼は漆原家へたずねて行った。一刻も早く、彼の計画の結果をたしかめたかったのだ。  呼鈴《よびりん》を押《お》しても返事はなかった。裏口へ廻《まわ》って、勝手口から家の中へ入ると、はたしてそこには彼の予想通りの、地獄《じごく》図絵が展開されていた。  お手伝い部屋《べや》に一人、台所に一人、お手伝いが血を吐《は》いてのけぞっていた。奥《おく》の部屋には、貴美子夫人が、白蝋《はくろう》のような美しい顔を、朽木色《くちきいろ》に染めて、赤い絹糸のような血を、頬《ほお》の上にたらたらと引きながら、虚空《こくう》をつかんで息が絶えていた、だが京作の姿だけは見えなかった。  何か自分の計画に、粗漏《そろう》があったのか。万全を期した自分の犯罪も、最後に狂《くる》いが生じたのか——  彼の頭は、早鐘《はやがね》のように激《はげ》しく鳴っていた。これでは彼の計画も、半ば達成したのに過ぎないのだ。  だが彼はこうしているわけには行かなかった。彼は早速近所の派出所へ駈《か》けつけた。 「僕《ぼく》はこういう者なのですが、いまそこの漆原さんへ訪ねたところ、奥《おく》さんとお手伝いさんが血を吐《は》いて、死んでいるのを発見したのです。すぐ駈けつけてくれませんか……」     4  彼の計画は、見事に半ばは成功したといえるだろう。屍体《したい》は早速厳重な検死が施《ほどこ》され、東大医学部、法医学教室へ運ばれた。厳密な解剖《かいぼう》が行われ、残ったあさりに動物実験が行われて、結局あさりの中毒による死亡、と決定されたからなのである。  京作は、帰って来る早々、電話がかかって来て外出し、夕食を家で取らなかったので、この犠牲《ぎせい》となることは、辛《かろ》うじて免《まぬが》れたのである。これは彼にとって、この上ない痛恨事《つうこんじ》に違《ちが》いなかった。これでは彼の復讐《ふくしゆう》も、半ばの成功にしか過ぎないのだ。  しかしこの殺人方法の恐《おそろ》しい秘密は、誰《だれ》の注意をも引かなかった。ただ一人の例外を除いて……それは、東大法医学教室の至宝といわれる、名探偵《めいたんてい》、神津恭介であった。  神津恭介は、この解剖の報告を読んで、この間接毒殺法という、恐しい着想に思いあたったのである。彼は早速警視庁を訪れ友人の捜査《そうさ》第一課長、松下英一郎に、彼の恐《おそろ》しい疑惑《ぎわく》を打ち明けたのだった。 「なるほど、神津さん。それは恐しい着想ですね……」  松下課長も苦悶《くもん》していた。 「しかし、仮にあさりに人為的《じんいてき》に、毒素を発生させる方法があったにせよ、それだけでは、我々はこの惨劇《さんげき》を、計画的な殺人とは断定出来ないのです。何千万に一つという確率であっても、漆原京作が仙台から土産に持ち帰ったあさりの中に、その毒あさりが入っていた、ということは、当然考えられることなのです。その中に、人間の恐しい意図がひそんでいたということには、何の証拠《しようこ》もありませんからね……」  これはたしかに尤《もつと》もな、意見であった。貴美子は、不幸にして、久尾時夫からあさりを貰《もら》ったことを、帰宅した良人《おつと》に打ち明けておらなかったのだし、彼女も二人のお手伝いも、死んでしまった今日、そこまで想像を進めることは、人間の力には、及《およ》ぶことではなかったのだから…… 「ですが松下さん、被害者《ひがいしや》の従兄《いとこ》に、久尾時夫という、水産技師がありますね。漆原京作は、彼にすすめられて、このあさりを仙台から、土産に持って帰ったといっているのですが、僕《ぼく》でも知っているようなこの知識を、彼が持っていたということは、十分に考えられることではありませんか」 「それではあなたは……」 「漆原京作が、彼からこのような知識を得て、夫人の毒殺を計画したか。それとも彼が、漆原氏があの日、あさりを土産に持ち帰ることを知って、前もってその毒あさりを漆原家へとどけ、土産のあさりとまぎれるようにしたか。この二つは僕《ぼく》には十分可能な想像が出来るように思われます。まあ僕は自分の見地から、この事件をいま一度十分に検討して見ることにしましょう」  神津恭介は早速その足で、水産試験所に久尾時夫をたずねた。  この名探偵《めいたんてい》の来訪に、彼は思わず戦慄《せんりつ》した。しかし相手は、何の疑惑《ぎわく》の色をも見せてはいない。彼の心には、勝ち誇《ほこ》った悪魔《あくま》のような興奮が、激《はげ》しくおどっていた。この恐《おそろ》しい方法を、この名探偵《めいたんてい》に誇示《こじ》したいという誘惑《ゆうわく》に、彼は心を強く揺《ゆさ》ぶられて、止《や》まなかったのである。 「時に久尾さん。僕《ぼく》は漆原さんの行動に対して、ある恐しい疑惑を抱《いだ》いているのですがね。あなたは漆原さんに、何かあさりのことに関して、お話をされたことはありませんか」  彼の心にはふたたび、悪魔《あくま》のような考えが、電光のように閃《ひらめ》いたのだった。  この計画を、京作が企《くわだ》てたのだと見せかけることは出来ないものだろうか。——貴美子を倒《たお》し、まだ傷つかずに残っている漆原京作を、その犯人として葬《ほうむ》るのだ。これこそ正に一石二鳥の名策ではないだろうか。  彼の心は火のような興奮に燃え上った。 「神津さん、そういえば僕は、漆原さんに人為的《じんいてき》にあさりの毒素を発生させる方法をお話ししたことがあるような、気がするのですが……」  彼は雄弁《ゆうべん》に、あの方法を物語って行った。恭介の漆黒《しつこく》の眼は、異様な光に輝《かがや》いて彼の顔を鋭《するど》く凝視《ぎようし》しているのだった。 「なるほど、久尾さん、それは恐しい方法ですね。それではきっと、彼はあなたからその方法を耳にして、それによって奥《おく》さんの毒殺を計画したのでしょう。奥さんには、多額の保険金がかけてあるのですし、漆原家の莫大《ばくだい》な財産も、奥さんが死ねば、当然彼の手に帰するのですから……  しかしこの事件には、決定的な証拠《しようこ》というものが、全然残されていないのです。僕《ぼく》たちは明日《あす》、漆原さんの自宅へ訪ねることになっていますから、ご面倒《めんどう》でも、一緒《いつしよ》においで願えませんか。そしてその話を、僕《ぼく》たちの前で、漆原さんに今一度、繰り返していただきたいのですが……」  彼の心には、更《さら》に恐《おそろ》しい計画が出来上っていたのである。彼は神津恭介の申出《もうしで》を、喜んで承諾《しようだく》し、その夜一人で漆原家をたずねて行った。  京作はこの打撃《だげき》に、すっかり元気を失っていた。ただ一人、愛用のウイスキーを、ちびりちびりと傾《かたむ》けるばかり、彼の慰《なぐさ》めと謝罪の言葉にも、 「何ね、僕《ぼく》が毒あさりを買って来た、ということも、これも何かの運命なのだろう。何も君が、あさりを買えと、すすめたせいじゃないよ」  と淋《さび》しく答えるばかりであった。  京作が便所へ立って、座を外した時に、彼はウイスキーの角瓶《かくびん》に、準備して来た青酸カリを手早く落した。そしていま一つの紙包を、デスクの引出《ひきだし》に忍《しの》ばせると、早々に暇《いとま》を告げて家を出た。  冷い雨が、彼の上気した頬《ほお》を、快く打った。  京作は興奮すると、必ずウイスキーを口にする癖《くせ》がある。彼が明日、皆《みな》の眼前で、京作を激《はげ》しく追いつめて、彼にウイスキーを口にさせたなら、それこそ覚悟の自殺としか、考えられないことではないだろうか——  彼は最早、その成功を疑ってはいなかった。     5  その翌日の午後、漆原家の応接室で、松下|捜査《そうさ》課長、神津恭介、久尾時夫の三人は漆原京作と相対していた。鋭《するど》い殺気がその場を包み、京作の顔は何か、沈痛《ちんつう》な哀愁《あいしゆう》に閉されているのだった。  サイドテーブルの上には、たしかにあのウイスキーの瓶《びん》がそのままに……彼は内心ひそかにほくそえんでいた。 「漆原さん。実は今日こうして上りましたのは、申し上げ難い話なのですが、今度の事件の事についてなのです。あのあさりには、たしかに毒性が含《ふく》まれておりました。しかし奇妙《きみよう》なことには、仙台地方には全然、このような中毒事件は、発生しておらないのです」  神津恭介の鋭い言葉に、京作は何も答えず、ただこめかみの血管が、ぴくりと動いた。 「もしあなたが、このあさりを仙台でお買いになったとしたら、これは実に不思議な事件に違《ちが》いありませんね。どうしてあなたの持って来られたあさりだけが、このような猛毒《もうどく》を示すのでしょう。あなたはその理由に、何かお心当りはありませんか」 「別に……ただ不思議なことだと思うだけです」  簡単な、しかし悲痛な答えだった。 「ところが、あさりには、人為的《じんいてき》に毒素を発生させる方法が、発見されているのです。それも難しいことではなく、ただあさりを人工養殖《ようしよく》して、貝の中に砂粒を含《ふく》ませれば、それですむだけのことなのです。あなたは、その方法をご存じなかったのですか」 「僕《ぼく》は何も知りませんね」 「だが久尾さんは、いつか一度、あなたにその方法を、お話ししたことがある、といっておいでなのですよ」  京作の全身には、何か不思議な、戦慄《せんりつ》が走った。 「そんなことは……或《あるい》は聞いたことがあるかも知れませんが、僕はこのごろ、神経|衰弱《すいじやく》にかかっていて、全然そんな記憶《きおく》が残っていないのです」  彼は立ち上って、部屋《へや》の中を大股《おおまた》に歩き廻《まわ》っていた。そしてサイドテーブルの側へ歩み寄ると、ウイスキーの角瓶《かくびん》を取り上げて、金色の液体を、小さなグラスに注《つ》いでいた。  これこそ、久尾時夫の待ちに待っていた瞬間《しゆんかん》であった。彼は鋭《するど》く、最後の切札《きりふだ》を投げ出したのである。 「漆原さん。あなたは奥《おく》さんを殺そうとなさったのではありませんか。奥さんは前から私に、主人の心はこのごろすっかり前とは変ってしまった。私はまるで悪魔《あくま》の犠牲《ぎせい》に捧《ささ》げられた、憐《あわ》れな小羊のようなものだ、と泣いて話しておられましたが、離婚《りこん》されては、漆原家の財産に対する自分の権利もそれまでだ。あなたはこう思って、最後の計画を樹《た》てたのではありませんか。奥さんたちを殺したのは、あなたの犯行なのでしょう……」  漆原京作は、その言葉にも、何の反撃《はんげき》をも試みようとはしなかった。彼は手にしたウイスキーのグラスを、ぐっと一息に飲み干《ほ》した。途端《とたん》に恐《おそろ》しい変化が、彼の全身に走った。痩《や》せた長身が、わなわなと大きく波打ったかと思うと、彼はよろよろとよろめいて、俯伏《うつぶ》せに、床《ゆか》の上へと倒《たお》れて行った。その体はもう二度と動こうともしなかった。  松下課長と恭介は、咄嗟《とつさ》にその側に駈《か》けよってその脈を調べていた。 「……毒……」  二人の言葉は同時だった。恭介は立ち上って、軽くウイスキーの香《にお》いを嗅《か》いでいる。 「松下さん。このウイスキーには、多量の青酸カリが混入してあります。これでは一たまりもありますまい。覚悟の自殺だったのですね。前の殺人が発覚《はつかく》した場合を考慮《こうりよ》して、彼は万一の準備を整えておったのでしょう」  恭介が低く呟《つぶや》いたが、松下課長は堅《かた》く口を結んだまま、一言も語ろうとはしなかった。  久尾時夫の胸には、勝利の歓喜が燃え上っていた。彼は心中の興奮を、これ以上抑《おさ》えることが出来なかった。 「恐《おそろ》しい……恐しい事件でしたね。だが彼は当然、自分の罪の償《つぐな》いを、しなければならなかったのです。まさかこのような事になるとは、私も思ってはおりませんでしたが……  実は昨夜、私は一人でここへ訪ねてまいりました。そしてそれとなく、最後の決心をすすめたのです。勿論《もちろん》それは、自殺をすすめたのではなく、男らしく自首するようにとすすめたのでした。  彼はその言葉には耳を貸さず、淋《さび》しく笑っているだけでした。  ——久尾君、僕《ぼく》にはちょっとも、疾《やま》しいところはないのだよ。だが僕はもうこの世に生きているのが、堪《た》えられなくなった。あの机の引出《ひきだし》には、青酸カリが入れてあるよ。いざとなれば、何の暇《いとま》もない、一思いなのだよ。  それが漆原さんの、私に残した最後の言葉でした。彼はそれとはなしに、自分の犯行を消極的ながらも、認めていたのです。  そんなわけで、私も今日は彼の行動には十分の注意を怠《おこた》らなかったつもりです。しかしあのウイスキーの中に、もう青酸カリが入っていようとは、私にも全然、予想も出来ない事だったのです……」  思わぬ中に、流れるように、次から次へと、意外な言葉が、口を飛び出しているのだった。  これは全く、彼にとっては、一世一代の大芝居《おおしばい》だったのだ。 「なるほど、そうでしたか。あなたはこれで、殺された従妹《いとこ》さんの復讐《ふくしゆう》を、果されたということになりますね。奥《おく》さんも草葉のかげで、あなたの行為《こうい》に、手を合せて感謝しておられるでしょう。  ところで、その青酸カリの包みを、探してはいただけませんか」  恭介の静かな言葉に、彼はデスクに近づいて、引出《ひきだし》を力強く引き出した。だがその瞬間《しゆんかん》、彼は息も止るような戦慄《せんりつ》に、全身が凍《こお》りついたように感じたのだ。あの青酸カリの包みは——その中のどこにもなかったのだ。 「どうしましたか。あなたの昨夜入れておいた場所には、その青酸カリは残っていないのですね」  恭介の言葉は、彼の耳に錐《きり》を突《つ》き刺《さ》すように鋭《するど》かった。 「あなたはどうして……」 「あなたは昨夜、この部屋《へや》へたずねて来て漆原さんが席を外している間に、ウイスキーの角瓶《かくびん》に、青酸カリを投げこみ、残りの包みを、その引出の中に残しておいたのですからね」  神津恭介は、どうしてこのように、彼の秘密を知りつくしているのだろう。彼は一言も答えることが出来なかった。 「あなたは、いまいわれたような、自首をすすめることなどは、昨夜は一言も話しておられませんでしたね。僕《ぼく》は昨夜、この隣《となり》の部屋《へや》から、あなた方の一挙一動を観察し、一言一句に至るまで、洩《も》れなく耳にしていたのですよ」  彼は最早、自分の高ぶった神経の動揺《どうよう》を抑《おさ》えることが出来なかった。 「僕は余程、その場で飛び出して、あなたを現行犯で、おさえようかと思いました。しかし僕は、あなたが前の殺人の秘密を自分で曝露《ばくろ》するのを望んで、今日のこのお芝居《しばい》を、書きおろしたのです。あなたの言葉が本当だったか、嘘《うそ》だったか、それは漆原さんが誰《だれ》よりも、一番よくご存じのはずです。毒殺されたはずの漆原さんの口から、直接、そのお話をうかがうことにしましょうか——」  それは彼にとって、この上もなく恐《おそろ》しい光景であった。目の前で京作が倒《たお》れて行った時の、快い戦慄《せんりつ》はどこにもなかった。命を失ったはずの京作が、床《ゆか》の上に体をもたげて、青ざめた顔で、こちらを見つめた時——彼は完全な敗北を感じた。 「天才の毒で成功したあなたは、自ら愚者《ぐしや》の毒を使って倒れたのです。自分を滅《ほろぼ》すものは、結局は自分自身なのですよ……」  神津恭介の言葉は、最早彼の耳には入らなかった。彼は両手で眼を蔽《おお》い、心臓も張り裂《さ》けるばかりに喘《あえ》いでいた。すすり泣きとともに、狂おしい笑いが、彼の弛《ゆる》んだ唇《くちびる》を洩《も》れ、崩壊《ほうかい》した彼の頭脳に、最後に映って消えたものは、山のように大きな、二枚貝の青白い幻影《げんえい》であった……  久尾時夫は、その後間もなく、精神病院に収容された。青い病人服を着た彼は、毎日庭を歩き廻《まわ》って、一つかみの石ころを拾い上げ、頬《ほお》にあててその触感《しよつかん》を楽しんでいた。だがそれが、あの恐しい毒あさりのつもりであろうとは、それは誰にも分らなかった。  首を買う女     1 「あの、お宅には男の首はありませんでしょうか」 「えっ、何ですって」  人のよい、この古道具屋の老主人は、驚《おどろ》いたように相手の顔を見つめた。  色の白い、丸顔の、大柄《おおがら》の女であった。年は三十前後だろう。大きな眼が、ちょっと突《つ》き出《だ》したように見えるのが、バセドー氏病ではないかと思ったくらい。藤色《ふじいろ》の和服に、絵羽織《えばおり》をひっかけて、どこかの令夫人と思われる服装《ふくそう》だった。 「あの、首と申しますと……」 「そうですわね。できるなら、芝居《しばい》の首実検なんかにつかいます、張子《はりこ》の生首《なまくび》がほしいんですが、それがなかったら、等身大の人形の首でもいいんです。お宅にはありませんでしょうか」 「へえ、どうも手前どもではあいにくで」  主人ははげた頭をかきかき、私の方を見つめた。  私も実際の犯罪|捜査《そうさ》に、手を染めるようになってから、ずいぶん変った人間にもあったが、男の首を買おうという女には、これまで一度もめぐりあった例がなかった。  といって、頭が変だとも思われないし、全然何の目的もなく、こんなことをいって歩くのだとも思えなかった。  昨年の夏、飲みすぎて、胃潰瘍《いかいよう》の宣告を受け、二月ほど山の温泉で、一人さびしく保養をつづけ、やっとのことで帰京した私が、かねて近くの碁会所《ごかいしよ》で、顔見知りになっていた、古道具屋の店先で、油を売っていた時に、突然《とつぜん》この女が入って来たのであった。  私の全身には、持前の好奇心《こうきしん》が、むらむらと、湧《わ》き上って来た。そこは商売がら、店員のような風をよそおって、私はそれとなくたずねた。 「あの、失礼でございますが、奥《おく》さま、その首は、何にお使いになるんでございましょう」 「ちょっとわけがありますのよ。お宅になくっても、どこかそんな品物を、売っているようなお店をご存《ぞん》じありません」 「そうですね。おやじさん。どこか芝居《しばい》の小道具をつくっている店か、それとも人形屋へでも行ったら、いいんじゃないかしら」 「そんなお店は、どこにありますの」 「さあ、ちょっと心あたりもありませんが、もしどうしてもお入用《いりよう》だったら、お所とお名前を、うかがっておけば、お知らせいたしますが……」 「いいんですわ。それじゃあ、ほかで聞いて見ます。どうもお邪魔《じやま》しました」  ガラス戸を開いて、女は戸外の闇《やみ》へ姿を消した。何かしら、得体《えたい》の知れない、ぶきみな雰囲気《ふんいき》を、後に残して…… 「松下さん、いったい、あの女は何者だろうね」 「おかしな女だね。サロメはヨカナーンの首を欲しがったし、『赤と黒』では、マチルドが、恋人《こいびと》のジュリアンの首を拾って……」  そこまでいいかけて、私はギクリとしたのだった。 「おやじさん、また来るよ」 「松下さん、どうしたね。せっかくこの石が攻合《せめあい》で死にかけているというのに……」  いまは碁《ご》の勝負どころの話ではなかった。芝居《しばい》に使う生首《なまくび》を、探《さが》し廻《まわ》っている若い女。このぶきみな、奇妙《きみよう》な対照が、私に何かの犯罪を予想させたのだった。  女の姿は見えなかった。本能的に、私は中野《なかの》の駅の方へかけ出した。  その時一台のバスが、警笛《けいてき》の音も高く、私をはね飛ばさんばかりにして、通りすぎた。 「危い!」  間一髪《かんいつぱつ》に体をかわして、私はその自動車の方を見つめたが、さすがにハッとしたのだった。  さっきの女が乗っていた。一番前の運転手の隣《となり》の席で、私の狼狽《ろうばい》を嘲《あざ》けるように、艶然《えんぜん》と微笑《びしよう》していたのだった。  だがそれは一瞬《いつしゆん》の出来事だった。速力を増して、闇《やみ》の中に、消え去った車の跡《あと》を追うすべもなく、私は悄然《しようぜん》と、中野の兄の家へ帰って来た。  何か事件が起ったのか、三日ほど、警視庁に泊《とま》りこんでいた、兄の捜査《そうさ》一課長、松下英一郎が、その夜はどうしたのか、もう家に帰って、一杯|晩酌《ばんしやく》をやっていた。 「研三。もう体の方はよくなったかね」  私も帰京以来、初めての対面である。 「はい、どうにか、温泉がきいたらしいですね」 「いっぱい、行こうか」 「ご遠慮《えんりよ》しますよ。残念ながら、いただいたら、また病気が再発しそうですから……」 「何だ。だらしがないな」  兄は独酌《どくしやく》でチビリチビリと、私はその合間を狙《ねら》って切り出した。 「兄さん。今夜、僕《ぼく》はそこの古道具屋で、奇妙《きみよう》な女にあったんですがね。芝居《しばい》に使う、小道具の生首《なまくび》、それがないかと、さかんに探していましたよ」 「何だ。小道具の生首だって!」  兄は、とたんに、顔色を変え、吸物《すいもの》の中に杯《さかずき》をポタリと落した。 「どうしたんです。何か事件に……」 「そうなんだ。そうなんだよ。お前は一昨日《おととい》の夜の、阪東藤之助《ばんどうふじのすけ》殺しを知らないかね」 「あいにく、帰って来たばかりで、新聞もよく見ていないくらいですから」 「新聞に、大したことは書いていないよ。当局以外、知っていない、大きな手がかりが残っているんだ。  幸いに、ある警官が、真先に現場を発見したもんだから、テキパキと事が運んで、新聞記者もまだ真相を知ってはいない。  その男の、屍体《したい》の首が切りとられて、どこにも発見できなかったんだ。そしてその代りに、舞台《ぶたい》で使う、小道具の生首が、チョコンとついていたんだよ……」     2  さて、こうなると、私のたのみの綱《つな》はただ一人、友人の名探偵《めいたんてい》、神津恭介があるだけだった。早速、電話でよび出して、何でもかまわないから、万障《ばんしよう》くりあわせて来てくれと、こんな注文をつけられるのが、そこが高校時代の友人のいいところであった。  諸君も既《すで》にご存《ぞん》じのことと思うが、神津恭介は、今や日本|捜査陣営《そうさじんえい》の、若き偶像《ぐうぞう》となりおおせたかの感があった。一高から東大医学部へ進学し、法医学を専攻《せんこう》して、軍医として中国から南方に転戦し、帰還《きかん》直後、私のすすめによって、実際犯罪の捜査に手を染めるや、たちまちその天才を発揮して、幾多《いくた》の難問題|怪事件《かいじけん》を解決し、この眉目秀麗《びもくしゆうれい》、三十に満たぬ白面の貴公子は、兄とかたく手を握《にぎ》って名探偵の名をほしいままにしていたのである。  彼は微笑《びしよう》しながら、私の家に姿を見せた。地獄《じごく》で仏を見たように、兄はこの貴公子のような、美貌《びぼう》を持つ若き天才に、ことの仔細《しさい》を物語ったのであった。 「この男、阪東藤之助は、まだ四十には、大分間のある男です。以前は東京|大歌舞伎《おおかぶき》のある一座で、一応の地位にありました。ですが何しろ、ああした世界は、生れや育ちが、実力以上に物をいうのですから、この男も、いつまでも大部屋住《おおべやずま》いで、馬の足や、ならび大名などしているのに、がまんができなくなったのでしょう。  師匠《ししよう》に叛旗《はんき》をひるがえして、阪東藤之助一座を組織し、地方の芝居小屋《しばいごや》を巡業《じゆんぎよう》して……落ち行く先は、きまっています。  ところが終戦後は、どうしたのか、ぷっつり芝居の足を洗って、東京にかえり、神楽坂《かぐらざか》の焼跡《やけあと》あたりに、小さな家を新築し、ブラブラ暮《くら》していたんです。  元来《がんらい》役者の上りですから、ノッペリした、女のような顔をしていて、二枚目でござれ、女形《おやま》でござれ、檜舞台《ひのきぶたい》の芸の切り売りで、一応の人気もあり、女にも相当もてていたようですが、女性関係となりますと、いやはや大変な男でした。  きまった妻というものはなく、どこからか女を拾って来ては、身のまわりの世話をさせ、あきが来ると、ほうり出しては、また別の女を入れると……まあ、そういった生活でした。  最後の女は、久美子という名の女でしたが、大分したたか者らしく、眼の下に、傷あとなんかがあったりして、どこかあばずれの風があったようです、この女との生活は、大分長く、三月あまりも続いたようですが、事件の起ったその夜から、どこかへ姿を消しています。  さて、一昨日《おととい》の夜でしたが、終電車の時刻も過ぎてから帰って来た、隣《となり》の山垣《やまがき》という、神楽坂署の巡査《じゆんさ》が、彼の家のそばを通りかかって、雨戸が一枚、開いているのに気がついたのです。  不用心だと思って、声をかけて見ましたが、何の答えもありません。おかしなことだと、そこから首をつっこんで見ますと、生血の臭《にお》いがプーンと来たのですね。  すわ一大事と、ふみこんで、電気のスイッチをひねって見ますと、その部屋《へや》は一面の血の海でした。  主人の阪東藤之助が、和服姿で、虚空《こくう》をつかんで倒《たお》れていました。ところが、人間の屍体《したい》など、見なれているはずの、その警官でさえ、思わずキャッと叫《さけ》んだのです。  というのは、その屍体にはどことなく、不自然なところがあったのです。最初は彼も錯覚《さつかく》を起しました。前身が前身ですから、顔でもこしらえ、かつらでもつけたのかと思ったのですね。その首は胴体《どうたい》から、ズバリと切りはなされて、その上に頭にはちょんまげを結っていたというのです……  しかしだんだん、見つめている中に、その首が、舞台《ぶたい》で使う、小道具の生首《なまくび》だということが分りました。  屍体の首が切りとられて、そのかわり小道具の首がつけられていたのですね。  巡査は即刻《そつこく》、機宜《きぎ》の処置をとりました。さっそく、本署から捜査隊《そうさたい》が出張して、周到《しゆうとう》な捜査が行われて行ったのです。  そういう事情の下ですから、秘密の保持は思ったよりよく行きました。バタバタと、要所要所をかためてしまって、新聞記者も近づけず、表面はただの変死という発表をしたのです」 「なるほど、民主主義とは逆の行き方ですが、或《あるい》はそれもいいでしょう。それで解剖《かいぼう》の結果はどうなりました」  神津恭介も、さすがに苦笑を、禁じ得ないという風だった。 「死因《しいん》は青酸カリによる毒殺。死亡推定時間は、その夜の八時から十時の間。首はその後、屍体から切断されたということが分りました。台所の庖丁《ほうちよう》に、人の血の跡《あと》がありましたから、これで押し切ったのだろうということになりました……」 「どうもこのごろ、僕《ぼく》たちの出くわす事件は、ほとんどバラバラ事件ですね。どういうわけでしょうかしら。ところでその後の進展はどんな工合です」 「三日間、我々は必死に首を探して廻《まわ》りましたが見つかりません。久美子という女も発見できません。そこへ弟が、今晩|妙《みよう》な女にあったというわけです」 「ほう、それはいったい、どんな女です」  私は時こそ来《きた》れと、今夜の古道具屋の一件を、事こまかに物語った。  神津恭介は、かるく目を閉じて、しずかな瞑想《めいそう》に耽《ふけ》っていたが、その白皙《はくせき》の顔にはみるみる、桜色《さくらいろ》の紅潮が、浮《うか》び上って来たのだった。 「松下さん。これは奇妙《きみよう》な事件ですよ。一つの大きな犯罪の両端《りようたん》が、偶然《ぐうぜん》こうして眼に触《ふ》れたのです。ところでその首は、被害者《ひがいしや》の持物ですか」 「そうです。その巡査《じゆんさ》の話によりますと、芝居《しばい》では、特に凝《こ》った場合は、自分と生きうつしの生首《なまくび》をつくるのだそうですが、彼もまた、むかしの名残《なごり》だといって、三つばかり、自分の生きうつしの生首を箱《はこ》に入れて大事にしまっていたそうです」 「そしてそのあと二つの生首は……」 「それがどこにも見あたりません。どこかに消えてしまったのです」  しばらく彼はだまって考えこんでいた。しかしそれから、口をついて出た、彼の言葉には何となく動かせない力がこもっているのだった。 「松下さん。これはまだ序の口に過ぎませんよ。あとの二つの張子《はりこ》の首の行方《ゆくえ》を、大急ぎで探さないと、またしても、新たな殺人が起らないとはいえませんよ……」     3  さて、いかに名探偵《めいたんてい》、神津恭介であろうとも、これはまるで、雲をつかむような探し物だったといえるだろう。  しかし彼は、奇想天外《きそうてんがい》の方法で、この謎《なぞ》を解こうとしたのであった。  その四、五日後の朝刊を、注意深く御覧《ごらん》になった諸君なら、広告|欄《らん》の真中に、小さな六行ばかりの広告が出ていたことを、あるいは気がつかれたことだろう。  首! 首! 首の展覧会!  文楽の首。歌舞伎《かぶき》の首。人形の首。彫像《ちようぞう》の首。その他、世界各地の芸術と民俗の粋《すい》を集めた逸品《いつぴん》展観。入場無料。即売《そくばい》もいたします。    十月六日より三日間 銀座山中|画廊《がろう》  これがその広告の内容であった。  この画廊の持主は、恭介の友人だったので、借りる交渉《こうしよう》は電話ですんだが、さてそれからが大変だった。私は東京都内を三日ばかりというものは、首がりに走り廻《まわ》ったのであった。その間には、ずいぶん奇談《きだん》、珍談《ちんだん》もあったが、それはこの物語の本筋に関係がないから、省略して、やっとのことで、あわせて三十いくつかの首が、山中画廊に集められて、さてこの広告の段取となったのである。  歌舞伎に使う生首《なまくび》は、東奔西走《とうほんせいそう》の結果、やっと二つだけ、集めることができたのだった。警視庁の力を借りてさえ、こうである。ましてあの女には、到底《とうてい》見つかるはずはなかったろう。  神津恭介は、どうしてあの女が、あの古道具屋にあらわれたか、非常に気にしていたのだが、この親父《おやじ》が、前は地方|廻《まわ》りの劇団の芝居《しばい》の貸衣裳《かしいしよう》などをしていたという話を聞いて、なるほどとうなずいた風であった。  さてほかの二つの首とならべて、陳列《ちんれつ》された第三の首——それがまだ血痕《けつこん》も生々しい、阪東藤之助の身がわりの首であった。  会はあまり成功とはいえなかった。第一日目はチラホラと、物見高い銀座マンが、ひやかしに見えたばかりであったが、何しろ物すごい値段がついているものだから、買おうという人間は一人もなかった。  こちらは商売《しようばい》ではないのだから、やたらに売約済という、赤札《あかふだ》を貼《は》りつけて……めったに売れては困るのである。  二日目も、何《なん》の異状もなく過ぎた。そして最後の日となった。  私たちは、カーテンのかげから、そっと会場の方をうかがっていたのだが、神津恭介は、私の腕《うで》を捕《とら》えてささやいた。 「松下君。あの向側の喫茶店《きつさてん》の二階で、じっと此方《こつち》を眺《なが》めている、赤い洋服を着た女に気がつきませんか」 「その女がどうかしましたか」 「あの女はね、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も、あの店に坐《すわ》って、じっと此方《こつち》を見つめているんですが……ちょっと、のぞいてごらんなさい」  彼は小型のオペラグラスを、私の手にわたした。  ひったくるように、それをとって目にあて、焦点《しようてん》をあわせる……  窓際のテーブルに頬杖《ほおづえ》をついて、燃《も》えるような眼で、こちらを見つめている女。目には険があり、厚い化粧《けしよう》に、頭をくるんだスカーフと、良家の子女とは思えなかった。 「あれはいったい……」 「いわゆる、ラク町の夜の女の一人ですね。姐御株《あねごかぶ》のおマキという名の女だそうです」 「あの女と、首の展覧会に……」 「分りませんね。こうして僕たちがポケットマネーを出しあって、この展覧会を開いたのも、どうやらむだではなさそうですよ」  その時だった。私たちのかくれていた、小部屋《こべや》の呼鈴《よびりん》が低く鳴って、私たちの注意をうながしたのである。 「松下君……」 「神津さん」  間のカーテンを細目にしずかに開くと、会場は一目に見わたせたが、何と、売子に化けた、警視庁の婦人警官の前に立って、何かたずねていた女は、あの夜、あの古道具屋で、男の首を求めていた、和服の女ではなかったか。  服装《ふくそう》も、あの夜と同じ服装だった。至極《しごく》おちつき払《はら》っていて、何の動ずる色もなかった。  婦人警官が、顔色をかえて、入って来た。 「神津さん。あの首に買手がつきましたよ。売ってやってもよろしいですか」 「ついに敵はあらわれて来ましたね。証拠《しようこ》の首はだめですが、そのほかは、かまわないから売って下さい……」 「はい、かしこまりました」  婦人警官は、ふたたび会場へ引《ひ》っ返《かえ》して、生首《なまくび》を二つ、箱《はこ》に入れ、包装紙《ほうそうし》でくるみ始めた。 「さあ、松下君。いよいよ追跡《ついせき》がはじまりますよ」  神津恭介は、そういいながら、壁《かべ》の帽子《ぼうし》をとり上げた。 「どうしてここで、つかまえてしまわないのですか……」 「冗談《じようだん》じゃありません。あの女は囮《おとり》ですよ。あんな女をつかまえたら、大魚を逸《いつ》してしまいますよ……」  彼は口では笑っていた。だがその眼は、爛々《らんらん》と、焔《ほのお》のように輝《かがや》いていた。 「松下君、僕《ぼく》はあの女のあとをつけますから、君は向うのあのおマキのあとをつけてどこまでも行って下さい。お願いします」  そういいながら、恭介は、裏口へ階段を降りて行った。  女は片手に首の箱を下げて、階段から表の鋪道《ほどう》へ降りて行く。それを見ていた、向うの店の、おマキの顔色が、サッと変った。  首が売れたのは、この三日間、これが最初の出来事だった。  向うの窓際から、おマキの姿が消えるのを待って、私は大声に叫《さけ》んでいた。 「展覧会はやめ。事情によって、この展覧会はこれで打ちきります!」     4  実にふしぎな尾行《びこう》であった。  先頭が二つの首を抱《だ》いた女、その後に神津恭介、つづいて闇《やみ》の姐御《あねご》のおマキ、それから最後に私と……  先頭の女は、何も気づかない風であった。街角で、流しのタクシーを拾うと、悠々《ゆうゆう》とその中に乗りこんだ。恭介は見えがくれに、後をつけていた、警視庁特別買い切りのハイヤーでそのあとを。  おマキの方はあわてていた。 「ヘイ、自動車、自動車、ストップだよ」  笑い出したくなったものの、私もそれどころではなかったのだ。あわてて、自動車を拾って、おマキの車の後を追う……  自動車の運転手に、前の車をつけるように命じて、私はクッションに深く身を沈《しず》め、頭にこれまでの、事件の発展を、思い浮《うか》べて見たのだった。  ——恭介の狙《ねら》いは、たしかに誤ってはいなかった。奇想天外《きそうてんがい》、大胆不敵《だいたんふてき》な着想ではあったが、あの女があらわれて、二つも首を買《か》った以上、その目的は、どうやら達《たつ》せられたのだ……  ——だがこうして、芝居《しばい》の小道具の首だけを集める理由はどこにあるのだろう。  ——この女がこうして現れて来ることを、待ちうけていたのは、私たちだけではなかった。このおマキと、その首を買う女には、どんな関係があるのだろう……  いくら考えて見ても、私には、神津恭介がするように、これらのバラバラの謎《なぞ》の環《わ》を一つの鎖《くさり》に、つなぐだけの力がなかった。  車は新橋から虎《とら》の門《もん》、赤坂見附《あかさかみつけ》で左に折れた。渋谷《しぶや》の方へ行く道なのだ……  恭介の車は、次第にスピードを落していた。それに反して、おマキの車は、ぐんぐんと速度を上げて、恭介の車を追い抜《ぬ》かんばかりだった。  渋谷の駅の近くから、先頭の車は左に折れた。K町から、T町のあたりである。  と思うと、大きな焼《や》け残った邸《やしき》の前で、車は静かに停止した。勝手口と思われる、裏口から、女は別に追跡《ついせき》に気づかぬ様子で、中へ姿を消して行く。  おマキは、車から降りて、じっとその家を見つめていた。それから近所の煙草屋《たばこや》で、何《なに》かをたずねていたが、大きくうなずいて、安心したように、ズボンのポケットに両手をつっこみ、高く口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きながら、大股《おおまた》で渋谷駅の方へ歩き去って行った。 「どうです、松下君。いよいよ、敵の本陣《ほんじん》が、発見できたらしいですね」  車を狭《せま》い横町に乗り入れて、じっとその邸を見つめていた、私の背後から、神津恭介が声をかけた。 「神津さん、大丈夫《だいじようぶ》でしょうか。ひょっとしたら、籠《かご》ぬけでも……」 「大丈夫ですとも。あの女は何も知らないんです。一つこの家の主人にあって見ましょう」 「危いことはありませんか」 「君も病気をしてから、ずいぶん気が弱くなりましたね。命が惜《お》しかったら、ここで待っていますか……」 「そんな薄情《はくじよう》な……あなたが行くところなら、どこへでもついて行きますとも。だけど、ちょっとこれだけ、待って下さい」  私は懐中《かいちゆう》に忍《しの》ばせた、サントリーを、カップに三、四|杯《はい》、グイとあおって、その勢いでこの家の門をたたいた。  表札《ひようさつ》には、「光原 秀雄」  と記《しる》されていた。堂々たる、大邸宅《だいていたく》という構えであった。  呼鈴《よびりん》をおすと、さっきの女が出て来た。私の顔を見て、何かハッとしたような様子であった。 「どちらさまでいらっしゃいますか」 「僕《ぼく》はこういう者ですが首の件について、ご主人《しゆじん》にお目にかかりたいのです。逃《に》げかくれなさるとためになりませんよ」  しばらくして、また女は玄関《げんかん》へ出て来た。 「ちょっとなら、お目にかかると申しておられます。どうぞこちらへ……」  私たちは、玄関わきの、八|畳《じよう》の洋風の応接間に通された。  さすがに凝《こ》ったつくりであった。だがこの変った装飾《そうしよく》は——私も、思わずアッといったのだ。  首、首、男の首、この部屋の壁《かべ》から棚《たな》、机の上まで一面に、飾《かざ》り立てられているものは、すべて男の首であった。  青銅の像。石膏《せつこう》の像。マネキンの人形の首。文楽の首……まるでさっきの会場を、そのままここに移したのかと、思えるほどの壮観《そうかん》だった。  だが問題の、歌舞伎《かぶき》の首は……私は、あわてて、あたりを見廻《みまわ》した。  三つの首が並《なら》んでいた。色も青ざめ、眼を閉じ、唇《くちびる》を噛《か》みしめて、恨《うら》めしげに、私たちを、開かぬ眼で睨《にら》みすえる、この生首……  二つの首は私たちが集めて来た、芝居《しばい》で使う普通《ふつう》の生首、いま売ったばかりの品で、特に誰《だれ》に似せてつくったという品ではない。だがその最後の三つ目の首は……  これこそまさしく、殺された、阪東藤之助に生き写し! 屍体《したい》にのこっていた首と、同じ種類に違《ちが》いなかった。     5 「神津さん、この首は、いったいどこから来たのでしょう」  私は、小声で恭介にささやいた。 「いうまでも、ありませんとも。殺された阪東藤之助の持っていた、三つの首……その中の一つが、これなのですよ」 「それではやっぱり犯人は、この家の……」 「そこまでは、僕《ぼく》にもまだ分りませんね。シッ、黙《だま》って……」  静かに部屋《へや》の扉《とびら》が開いた。そして、和服姿の、この家《や》の主人、光原秀雄が、部屋に入って来たのであった。  色の浅黒い、やせぎすの、四十二、三の男であった。つめたい、鋭《するど》い感じを与《あた》える顔に、眼だけが強く光っていた。 「黒沼さんと、丸部さんですね」  これが私たちの、いざという時に使用する偽名《ぎめい》である。 「初めてお目にかかりますが、どうぞよろしく」 「まあ、おかけ下さい」  私たちは、しずかに椅子《いす》に腰《こし》をおろした。 「さて、いったいご用件《ようけん》は、何ですか」  彼は名刺《めいし》を指でまさぐりながら、私たちの言葉をうながした。 「実はぶしつけなお願いですが、この首をお譲《ゆず》り願えないかと思いまして」 「ほう、どの首ですか」 「その左の端《はし》の、芝居《しばい》に使《つか》う生首《なまくび》ですが」  男の顔には、一瞬《いつしゆん》チラとぶきみな殺気が動いた。 「なるほどね。この首に目をつけるとは、あなた方も、ただの鼠《ねずみ》じゃありませんね。お譲りしてもよろしいですが、値段がちょっと張りますよ」 「というと、おいくらぐらい」 「百五十万円、一銭もひくわけには行きませんね……」 「なるほど、相当の値段ですね」  そういいながら、恭介は、じっと相手の眼を見つめた。 「光原さん。この首を、あなたはどうして手に入れたんです」 「馬鹿《ばか》なことを、聞くんじゃないよ。値段があわなかったら、帰りたまえ」 「このまま帰っていいのですか」 「何だね。君は、強請《ゆすり》でもするつもりか。君たちは、僕《ぼく》を脅《おど》かそうとして、両刃《りようば》の剣《けん》をいじっているのが分らないのか。これでもおれは、この道では、ちっとは知られた男だぜ。変なことをいうようなら、二人ともこの場を生かしちゃ、帰さねえぞ……」  彼は完全に、自分の本性を曝露《ばくろ》して見せたのだった。いつの間にか、扉《とびら》がふたたび、音もなく開いて、人相の悪い男が二人、鋭《するど》い短刀を閃《ひらめ》かして、部屋《へや》に入って来たのである。  恭介は、顔色一つ変えなかった。どんな成算が胸にあるのか、悠容迫《ゆうようせま》らぬ態度であった。 「そんなおどし文句はやめたまえ。そんなものぐらいが、恐《おそろ》しかったらこうして危地に飛びこみなんかはしないよ。  まず聞こう。いったい、君は何だって、阪東藤之助を殺したのかね」 「そんな男は知らねえよ」 「白《しら》を切っちゃだめだよ。それじゃあ、どうしてこの首が、ここにある」 「取引で品物が動くのには、何のふしぎもないじゃないか」 「それでは君は、誰《だれ》かほかの人間から、この首を買ったというんだね」 「あたりまえよ」 「その売手は……」 「馬鹿野郎《ばかやろう》。そんなことがいえるかい」 「いわなかったら、口を割ってもいわせて上げようか」 「この若僧《わかぞう》。嘗《な》めやがると承知しねえぞ。それ……」  凶悪《きようあく》な、殺気を顔にみなぎらせて、匕首《あいくち》をひるがえした青年が、私たちにおどりかかろうとした時だった。 「神津さん。どこにいます……」  ドタドタという足音とともに、この部屋に乱入して来た、一隊の武装《ぶそう》警官。その先頭には、例の柔剣道《じゆうけんどう》合せて十二段の豪傑《ごうけつ》、石川|刑事《けいじ》が、拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》っておどりこんだのだ。 「何をする……」 「じたばたするねえ」  ドタンバタンと、嵐《あらし》のような乱闘《らんとう》の後、この家《や》の主人は、二人の用人棒とともに、警官に組みしかれ、つめたい手錠《てじよう》がかけられた。  神津恭介は笑っていた。 「とんだ大捕物《おおとりもの》になりましたね。光原さん、さあ今度こそ、売手の名を警視庁で白状してもらいましょうか」 「貴様は誰《だれ》だ。いぬか、それともデカか」 「そんなものではありません。神津恭介というものですよ」 「神津恭介!」  さすがに相手も、観念のほぞを固めたらしかった。悄然《しようぜん》と頭をたれ、色青ざめて、表の方へひかれて行った。 「神津さん、よかったですね。一時はハラハラしましたよ……」  私は生きた心地もなかったのだ。全身が、ビッショリと、冷い汗《あせ》に濡《ぬ》れていた。 「大丈夫《だいじようぶ》ですとも……あのあとで自動車を渋谷警察へ走らせて、すぐ武装《ぶそう》警官を、この家に踏《ふ》みこませるよう話しておいて、それからやって来たのですから……僕《ぼく》は決して、成算のない冒険《ぼうけん》はしませんからね」  何事もなかったように、恭介は静かに笑っていた。 「この男が……阪東藤之助を、やったのでしょうか」 「恐《おそ》らく、そうではないでしょうね。さっきの話をきいていると、いま一人の男が、中に入っているようです。彼はその男から、この小道具の首を買わされたのでしょう」 「この首が、どんな値打を持っているんです。この男は、どうして男の首だけを、こうして集めているんです。どうして阪東藤之助の首のかわりに、芝居《しばい》の首が屍体《したい》についていたんです……」  私には、すべて分らぬことだらけだった。 「いまに間もなく、分ります。石川さん、どうなりました……」  彼はその時、ふたたび廊下《ろうか》に姿をあらわした石川|刑事《けいじ》に声をかけた。 「彼《かれ》らは警視庁に護送しました。ところで、あとはいったいどうしましょう……」 「この男の身元洗いはまだですか。たしかに唯者《ただもの》ではないはずですよ」 「一生けんめい、やっているはずです」 「それでは家の中をきちんと片づけて、警視庁から、婦人警官を、一人私服でよこして下さい……」 「それは……どういうわけですか」 「阪東藤之助、生き写しの三つの生首《なまくび》の中、一つは殺人の現場で発見されましたし、一つはこの家《いえ》にありました。その残った三番目の生首が、現れて来るのを、この家で待つのですよ」  神津恭介は、ふしぎな微笑《びしよう》を浮《うか》べたのだ。     6  恭介の予想は、今度も誤たなかったといえる。たしかに三つ目の生首は、この夜、この家《いえ》に現れたのだ。  彼はすべてに、細心の注意を払《はら》っていたのだった。武装《ぶそう》警官を踏《ふ》みこませるのも、彼《かれ》らを警視庁に護送するのも、すべて裏口からさせていた。隣近所《となりきんじよ》の人々でも、よほど注意していなかったら、この家《うち》でああした乱闘《らんとう》が行われていると思いはしなかったろう。  警視庁から、一人の婦人警官が到着《とうちやく》した。さすがに兄がこれと目をつけて、数多い婦人警官の中から選び出しただけあって、十人|並《なみ》以上の美人、しかも態度もしっかりしていた。 「神津さん。お待たせしました。課長さんがよろしくと申しております。あの男は、詐欺《さぎ》、恐喝《きようかつ》あわせて前科三犯のしたたか者らしいのですが、阪東藤之助殺しのことは、なかなか口を割りません。それでここにある、証拠《しようこ》の首をとどけてもらいたいと、それがお言伝《ことづ》てでしたが……」 「まだ、だめです。第三の首が現れて来ない中は……これが大事な餌《えさ》ですから」 「それではわたくし、どうしましょう」 「僕《ぼく》はこの家で、主人の役をつとめますから、あなたには、奥《おく》さんの役をはたしていただきましょうか」 「まあ……」  思いがけない、その言葉に、若い婦人警官はみるみる顔を赤らめたが、満更《まんざら》でもない役割に、いそいそと、その言葉に従った。  時間はすでに九時近かった。爽涼《そうりよう》の夜の気がいまこの家を包んでいた。 「神津さん、この首には、いったいどんな価値がひそんでいるのでしょう」  二人きりになった時、私は何度目かの疑問を、彼に投げかけた。 「ごらんなさい」  彼は静かに、例の生首《なまくび》を、手にとり上げて、首実検のような形で前後をあらため、切口をかえして微笑《びしよう》した。  ちょっといじると、その切口は音もなく開いた。張子《はりこ》の首の中は空《うつ》ろになっていた。そしてその中につめられた、いっぱいの白いサラサラした薬品——私は、思わず驚《おどろ》きの叫《さけ》びを上げた。 「モルヒネですね」 「そうです。大量の麻薬《まやく》ですよ。事もあろうに、こうして首の中にかくすとは、ずいぶん凝《こ》ったものですね」  私はその時はっと耳をすました。ジーンと呼鈴《よびりん》が鳴っている。夜の静けさを貫《つらぬ》いて、この家の沈黙《ちんもく》をかき乱す、おとないの音は……  婦人警官が、顔色も青ざめて姿を見せた。 「あの、あなた……」 「何ですか」 「男の首を、買ってもらえないかといって、女の方が……」  私たちは、思わず顔を見あわせた。息づまるような緊張《きんちよう》の中で、恭介はわが事なれりというように、会心の微笑《びしよう》を浮《うか》べていた。 「松下君。君はかくれて……それではお通しして下さい」  私はあわてて、隣《となり》の部屋《へや》に身をひそめた。軽い女の衣《きぬ》ずれの音…… 「夜おそく、突然《とつぜん》上りまして、失礼しますが、お宅では、男の首を集めておられると聞いたので、買っていただけないものかと、こうして持って上りました」  初めて耳にした、女の声。 「そうですね。御覧《ごらん》のように、妙《みよう》な趣味《しゆみ》で、こうして男の首ばかり集めているものですから、物によっては、いただかないでもありませんが、それはいったい、どんな首です」  たくみにこの家《や》の主人になりすました、神津恭介の答えであった。 「芝居《しばい》に使う、小道具の生首ですが……」 「ほう、それは珍《めずら》しい」  ガサガサと、包みをほどく音がした。 「なるほど、これは逸品《いつぴん》ですね。お値段はいかほどです」 「三百万円。一銭もおひき出来ませんわ」 「三百万円! 冗談《じようだん》じゃない。あなたは気でも狂《くる》ったのですか」 「それでも一つじゃありませんのよ。これはただの見本に過ぎませんわ」 「見本というと……」 「光原さん。これと同じ首がどうして、あなたのところにあるのですか」 「これはある人から、ゆずってもらったものですが……」 「いくらでお買いになりました」 「それはどうも、申し上げるわけには行きませんね。こんな首を、あなたはほかに、いくつお持ちなんですか」 「一つですが……光原さん。それはこうした、張子《はりこ》の首《くび》じゃなくってよ。ほんとうの、殺された人間の首なんですわ……」 「何ですって、それはいったい、誰の首です……」 「阪東藤之助という男の首……ホッホッホ、ずいぶんびっくりなすったようなお顔ですわね……」  恭介は、何とも答えはしなかった。見事に大魚は網《あみ》にかかった! あとはその網を絞《しぼ》って行けばよいのだ。 「あなたはどうして、その首を持っておいでなんですか」 「ある事情があって、その首がわたしのところへ舞《ま》いこんだんです」 「それをどうして、僕に売ろうと……」 「光原さん。白っぱくれちゃ、いけませんわ。あの首を手に入れたほどのあなたが、そんな端金《はしたがね》を——口どめ料と思えばお安いものじゃない」 「何の口どめ料なんです」 「わたしが知らないと思っているの……阪東藤之助の殺害と、麻薬《まやく》の売買、軽くって、十五年の刑《けい》はたっぷりよ。悪くいったら無期か死刑《しけい》……三百万は安いもんだわ」 「アッハッハ。ずいぶん高飛車《たかびしや》な言い方ですね。いったい何の証拠《しようこ》があって、あなたはそんなことをいいます」 「この首が、ここにあるのが、何よりの証拠よ……こんなものを、一つだけ、しまっておくんじゃ、目につくから、あなたはこうして、ほかの首を、買い集めているんじゃありません。  変ったものは、一つじゃ注意をひくけれど、沢山になると、かえって注意をひかないって、誰《だれ》かがいっていましたわね」 「なるほど、たしかにその通《とお》り。しかし久美子さん……いや、びっくりするには及《およ》びません。あなたの名前ぐらい、知っていますよ……  いったい、僕《ぼく》がこうして首を集めている動機はどこにあるのでしょうね。彼の家には、たしかに三つの首があったはず……その一つはこうして、麻薬が入ってここにありますが、あとの二つはどうなったんでしょう。一つは屍骸《しがい》にチョコンとついて、本物の首のかわりをしていました。最後の一つを、いまあなたがここへ持って来た……それを僕は、いままで待っていたのです。そのために、首を集めて、あなたの注意をひこうとした……」 「光原さん何ですって……」 「久美子さん。屍体《したい》の首を切りとったのは、あなたでしょう」 「そうですわよ。それがいったい、どうしました……」 「あなたも、それで、一つの犯罪をおかしたことになるのですよ」 「ホホ……おどかすのね。わたしの罪は、屍体|毀損罪《きそんざい》。出る所へ出たって、知れていますわよ」 「じゃあ、何のために、この小道具の首を屍体につけておきました」 「お馬鹿《ばか》さんだと思ったら、あなたも案外馬鹿じゃないのね。新聞にも出なかった、その事を知っているんじゃ、ずいぶん偉《えら》いもんだわね……  あなたが阪東藤之助を殺したとき、あの家にあの人に似せた二つの首があったでしょう。一つはあなたが狙《ねら》っていた、麻薬《まやく》の入った仕掛《しか》けの首。一つは何も入っていない空の首……  わたしがどう考えたのだと思います。  あの屍体を見て、一つだけ首がなくなった時、思いました。この屍体の首を切りとって、残った張子《はりこ》の首をのせといたら……このいま一つの麻薬の首をとった男、……それを持っている男が犯人だということが、すぐ警察に分るだろうと……そのなくなった、張子の首に注意をひくために、わたしは首を切ったのです」 「なるほど、あなたも女丈夫《じよじようふ》ですね。しかしそれは、大した効果もありませんでしたね」 「大した効果がないというのね……あの銀座の首の展覧会、あれが警察の仕掛《しか》けた囮《おとり》の罠《わな》だぐらい、あなたはお気がつかないの。  屍体についていた首のことは、あくまでかくしておいて、そうして犯人をおびきよせる。あそこで首を買ったからには、明日《あす》にでも警視庁がふみこむわ。その時わたしが口を割ったら。……三百万円は安いじゃない」 「あなたがそれまで、生きていたらね」 「何ですって、あなたはわたしを脅迫《きようはく》するの……」 「もちろんですとも。いったいあなたは、どうして僕《ぼく》の存在を知ったのです。いわないと、生きてこの場をかえしませんよ」 「姉妹分《きようだいぶん》が、あの会場から、首を買った、女のあとをつけたのよ。三日間、たった一人のお客だったと、やっぱりあなただったのさ」 「しかし、久美子さん。あなたの秘密の口を割らせて、ただ手ぶらでお帰しするなんて、ちょっと申しわけありませんが、僕は阪東藤之助を殺した犯人ではないんですよ」 「まあ、図々しい! 白っぱくれるのは、よしにしたらどうだい……」  ガラガラと、物のたおれる音がして、女が疾風《しつぷう》のように逃《に》げ出した様子であった。  あわてて飛びこんで見ると、恭介は突《つ》きとばされたテーブルの前に、苦笑して立っていた。 「松下君。追跡《ついせき》です。早くあの女の跡《あと》を追わないと……最後の惨劇《さんげき》が起りますよ」     7  月のない、暗黒の夜。女は大股《おおまた》に、青山《あおやま》の方へ通りを上って行った。  深夜、どこにも人影《ひとかげ》はなく……いや、必死に女の行方を追う、私たちの眼の前を横切って、女の傍《そば》に寄りそった、黒い人影があったのだ。 「何するんだい……あっ、お前は長谷部《はせべ》!」 「そうよ、長谷部だ。声を立てると命がねえぞ。だまってついて来やがれ……」  低い、おしつぶすような男の声であった。拳銃《けんじゆう》か、短刀《たんとう》を横腹《よこつぱら》につきつけられたのだろう。女はもはや一言《いちごん》もなく、道を横切って、右手に残った焼跡《やけあと》へ……  足音を忍《しの》ばせて、私たちもその跡を追う。 「お前はあたしを、どうしようっていうんだい……」  血を吐《は》くような女の叫《さけ》び。 「どうしようともいいやしねえよ。お前はあの家へ行ったろう。そしておれが、あの首をあいつへ売ったことを聞き出したろう」 「そんなこと、ちっとも聞いて来やしないよ」 「かくすねえ。そいつを知られちゃ、身の破滅《はめつ》……お前の口をふさがしてもらうんだ」 「それじゃあ、お前があの人をやったんかい!」 「やっとお前も分ったのか。かわいそうだが、お前の命はもらったぜ」 「人ご……ろ……し……」  神津恭介の手が上るが早いか、武者《むしや》ぶるいして待ちうけていた、石川|刑事《けいじ》がおどり上った。武道十二段の腕《うで》に物をいわせる時はこの時と、喚声《かんせい》を上げて男に飛びかかった。右手の短刀を一撃《いちげき》で叩《たた》きおとし、腕を捕《とら》えて大外刈《おおそとが》り、ついにこの犯人を、召《め》し捕《と》ったのである……  さて、この事件の真相はこうであった。  阪東藤之助は、終戦後、麻薬《まやく》のブローカーに転向して、俳優の足を洗ったのであるが、彼がその麻薬の隠《かく》し場所に考えたのが、実にこの生首《なまくび》の中であった。こんなものを持っていたところで、前身が前身だから、誰《だれ》もふしぎには思うまいし、見ただけで気味悪《きみわる》がって、誰も切口をひっくり返して、首実検まではしないだろうと、そのように考えたのである。  ところが、彼の所に出入りしていた、ブローカー、特攻《とつこう》くずれのこの長谷部元三が、何かの拍子《ひようし》で、このかくし場所に気がついたのである。  情婦の久美子の留守をねらって、何かの取引にかこつけて、家をたずね、青酸カリで毒殺して、麻薬の入った首だけを持って逃《に》げる。そしてそれを、首ごと、光原秀雄に売りつけたのである。  そこへ久美子が帰って来て、藤之助の屍体《したい》にびっくりしたのであった。普通《ふつう》なら、すぐ警察へとどけ出るところだが、そこは自分も麻薬の売買など手伝《てつだ》ってすねに傷持つ身のことで、とどけようにもとどけられず、犯人の計算通り、その場から逃走《とうそう》して行方をくらましてしまったのだった。  だがこの女も、もともとただの女でなかったから、最後に実にとんでもないことを考えたのである。  犯人は一日も早くつかまえさせたい……しかしその名は分らない。ただこの張子《はりこ》の首《くび》をとって行った人間が犯人だときまっている。  それでこの小道具の首に注意をひこうとして、屍体《したい》の首を切りとって持ち去り、そのかわりに残った、空の首をつけると、そんな芸当を咄嗟《とつさ》にやってのけたのだった。  さて警視庁は、たしかにこの首のすげかえには、驚倒《きようとう》したのであるが、あくまでこれは、秘密にされていたのであるから、もちろん光原秀雄の方には、知れるわけもなかった。  この首を買いとった、光原は、なるほどうまい隠《かく》し場所だと、膝《ひざ》をたたいて驚歎《きようたん》したのである。  どうも自分も、このごろ警察《けいさつ》に睨《にら》まれて、いつ家宅捜索《そうさく》をされるかも知れないが、この生首《なまくび》の中に麻薬《まやく》がかくしてあろうとは、よもや誰《だれ》でも気がつくまい。  いっそ、最善のかくし場所は、かくさないことだというから、堂々と応接間に並《なら》べておいてやろう。しかし一つではかえって目につくから、蒐集癖《しゆうしゆうへき》だと見せかけて、手あたり次第に、男の首を並べてやれと、それで妻に首がりをやらせたというわけなのである。  だが一方で、こうした事件が起っていると知らなかったのが、上手《じようず》の手から水が洩《も》る。彼としては千慮《せんりよ》の一失であった。  さて、久美子の方は、自分の冒険《ぼうけん》が、ちっとも功を奏しないで、イライラしていたところだったから、あの展覧会の広告を見て、思わず手を打って喜んだのである。  だがこれは、大方警視庁のたくらみであろうと、そこまでは推測も出来たので、自分が表面に出ずに、その時身をよせていた、姉妹分《きようだいぶん》のおマキ姐御《あねご》に、会場の監視《かんし》をたのんだのであった。  光原秀雄の方では、何も知らないものだから、これは便利と首を買いにやったのだが、これが彼の自ら墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》る、原因となったのである。  ところがあんなに早く手が廻《まわ》ろうとは、さすがの久美子も思わなかった。どうせ手入れは明日《あす》だろう。その前に、少しばかり、行きがけの駄賃《だちん》にゆすってやろうかと思ったのだ。  ところが、阪東藤之助の持っていた、三つの生首《なまくび》の中で、二つは凶行《きようこう》の日、彼の家に残っていたのだが、一つは偶然《ぐうぜん》、久美子が別なところに移していた。それで彼女はその最後の首を持って、ノコノコやって来たのである。  盗《ぬす》まれた首が、応接室に並《なら》んでいるのを見て、久美子はしめたと思ったが、目の前の男が、今を時めく名探偵《めいたんてい》、神津恭介であろうとは、さすがに思ってもいなかったので、ゆするつもりでおどかされて、尻尾《しつぽ》をまいて逃《に》げ出したというわけだった。  ところが、世間はせまいもので、この犯人の長谷部元三は、おマキの用心棒だったのである。彼はおマキから、この話を聞いて、思わず震《ふる》え上ったのだ。  ——これはいけない。久美子が、あの家へ乗りこんだら、自分があの首を売ったことが、バレてしまう。  こう思って、一時は雲を霞《かすみ》と、逃亡《とうぼう》しようと考えたが、彼はまたしても、最後に慾心《よくしん》を起したのだった。  ——ええ、一人殺すも、二人殺すも同じことさ。ひょっとしたら、光原が久美子を殺すかも知れないが、それなら藤之助殺しの罪も、そっちにかかるし、無事で家から出て来るようなら、強請《ゆすり》が成功したのだからバラして、その金を持って逃《に》げよう。  こう思って、彼はあの夜、久美子の出て来るのを、待ちうけていたのであった。  さてこれが、この男の首の事件の真相なのであるが、この原稿《げんこう》を書き上げて、私が神津恭介に見せた時、彼はさすがに苦笑していた。 「松下君。君はこの記録を発表するつもりですか」 「もちろんですとも、今度の事件には大分資本がかかっていますからね」 「だめですよ。恥《はじ》さらしですから、よしましょうよ」 「どうしてですか」 「いつもなら、僕はどんな事件でも理詰《りづ》めで攻《せ》めているのですが、今度の事件は大ハッタリ。最後だって、ああして犯人が、ノコノコ出てくれるとは思わなかったんですよ。おマキが、あの女のかわりに偵察《ていさつ》、尾行《びこう》したのだろうとは思っていましたから、あの女がやって来ることまでは気もつきましたが、犯人までおともして来るとは思いませんでしたね。  あの女が、何かの密売団の一味で、金をゆすり損ねて帰ったら、半殺しぐらいにはなるだろうと考えて、それであわてて跡《あと》を追いかけたんです。とにかく発表はよしましょう」 「いや、いや、ハッタリだって、たまには読者も喜びますよ」  ひったくるように、この原稿を持って帰って、私はこれを発表することにしたのである。  鎖《くさり》     1 「神津先生」  女の助手の呼ぶ声に、白衣の神津恭介は、顕微鏡《けんびきよう》から眼を上げた。  晴れた冬の日、東大医学部法医学研究室の一角である。  女のように美しい、この青年医学者の広い額《ひたい》には、汗《あせ》で濡《ぬ》れた漆黒《しつこく》の髪《かみ》が数本、べとりとまつわりついていた。 「何です」 「先生にご面会、女の方、お若いおきれいな方ですわ」 「女の人が僕《ぼく》に面会……」  と、彼もふしぎそうに、首をかしげた。 「まあ、何にせよ行って見ましょう。ここはこのままにしておいてね」  彼は、白衣のポケットに両手をつっこんで、コツコツと階段を降りて行った。  バックフールのベージュのオーバー、すらりとした長身の女が、入口に立っていた。  その顔は、白いというより、病的に青ざめた感じである。憔悴《しようすい》の色が、まざまざとあらわれた痩面《やせおも》に、大きな二つの眼ばかりが、女とは思えぬほどの、熱っぽい光を放っていた。思いつめているような、態度である。  恭介は、何かしらギクリと胸に、殺気を感じた。 「神津ですが」 「先生……」  女は泣き出しそうになっていた。 「あの、お忙《いそが》しいところをご迷惑《めいわく》だと思いましたが、先生にお願いしたいことがありまして、わざわざT市から出てまいりました」 「T市から……」  T市は関東地方、周辺の小都市、東京からはおよそ半日ほどの行程である。 「それでいったいご用件は」 「はい、わたくし本間良子と申しますが……あの……兄が、兄が殺人の容疑で逮捕《たいほ》されましたの。  兄は絶対に、人など殺すような人間ではありません。きっと誰《だれ》かの陰謀《いんぼう》です。おとしあなが、どこかに仕かけてあるんです。  警察へ参りましても、検事局へ参りましても、どこでも相手にしてくれません。みんな兄を、犯人だと、頭からきめこんでいるんです。  どうしようかと思いました。それで最後に思いついたのは、先生におすがり出来たら、ということでした。  わたくしどもで出来ることでしたら、どんなお礼でもいたします。先生の頭をちょっと、働かしていただいただけで、兄の命は助かるんです」 「そんなにおっしゃられても……」  と、神津恭介は口ごもった。  三十に未《いま》だ満たない青年である。女のような美貌《びぼう》を持つ、白面の貴公子であった。  だがこの弱冠《じやつかん》の青年学者が、実際の犯罪|捜査《そうさ》の面に示した、手腕《しゆわん》と才能とは、ちょっと常人の想像も及《およ》ばぬほどのものがあった。わずか二年に満たない中に、十|幾《いく》つの怪事件《かいじけん》、難問題を相次いで、解決し去った彼の前には、日本有数の名探偵《めいたんてい》の栄誉《えいよ》が浴びせかけられた。  大学の研究生活などよして、職業的な私立探偵になってはどうかと、すすめる人も、数え切れないほどだったが、彼はだまって首をふったまま、黙々《もくもく》と恵《めぐ》まれない、基礎《きそ》医学の研究にいそしんでいたのである。  家なり研究室へ、こうして事件の依頼《いらい》を持ちこんでくる人々も、あとを断とうとしなかったが、彼としても、これほど思いつめている女にあったのは初めての経験だともいえたのだった。 「そうですね。お役に立てるか、どうかは知れませんが、まあ、お話だけはうかがいましょう。どうです。その辺までご一緒《いつしよ》に」 「はい、おともさせていただきます」  小春|日和《びより》のうららかな、日の光を浴びて二人は電車通へ出た。  デリケッセンという、上品な喫茶店《きつさてん》の二階で、二人は丸いテーブルをはさんで向きあった。 「ここはコーヒーだけが自慢《じまん》ですよ。感じのいい店ですが、戦争中は出利決戦《でりけつせん》などと改名しましてね」  女はニコリともしなかった。恭介も、ハッと、口もとに浮《うか》んだ笑いをおさえた。 「それじゃあ、お話をおうかがいいたしましょうか」 「ええ、先生、首のない女というものが、この世に生きているのでしょうか」     2 「わたくしは、兄と二人、T市で細々と暮《くら》しておりました。いいえ、前から、そのように困っておったのではございません。戦争前までは、一、二を争う旧家でございましたし、財産も相当持っておりまして、何不自由なく暮しておったのでございます。  それが、父は昔風《むかしふう》の、固い一方の商売人でございましたし、戦争中から戦後にかけて、人にだまされ、運の悪いのも重《かさな》りまして、すっかり没落《ぼつらく》してしまいました。  もう本間家と申しましても、むかしの威勢《いせい》はございません。大きな家には住んでおりますが、それも一番|抵当《ていとう》、二番抵当に入っているくらいでございます。  父は不遇《ふぐう》のうちに、なくなりました。兄は会社につとめて、細々ながら、暮しを立ててはおりますが、二人が生きて行くのが精いっぱい。それにこの、今度の事件でございますし、全く何と申しましょうやら。お恥《はずか》しい次第でございます」 「いや、そんなことは、ご心配にも卑下《ひげ》なさるにも及《およ》びませんとも、ところでその事件というのは」 「はい。それが、恐《おそろ》しい事件でございました。吉村鈴子さんという、おきれいなお嬢《じよう》さん、いえもう、今では奥《おく》さんですが、その方が首をねじ切られて殺されまして」 「その嫌疑《けんぎ》が、お兄さんにかかったというわけですね」 「そうなんです。でも、そんなこと、嘘《うそ》ですわ。嘘ですとも。  兄と鈴子さんとは、前からずっと恋仲《こいなか》でした。親のきめた許嫁《いいなずけ》の仲ではございましたが、そればかりでなく、兄も鈴子さんを愛していましたし、鈴子さんの方でも、兄を憎《にく》からず思われていたようでございます。  それはそれは、美しいお方。女学校時代から、町でも並《なら》ぶ者もない、というほどの器量ではございましたが、美人と申します者は、心が石のようにつめたく出来ておるのでもございますかしら。  わたくしの家が没落《ぼつらく》しましてからは、おいでもプツリとたえましたし、兄との気持も、前とは全然、ちがってしまったようですの。  それで、結局向うのご両親が見えられまして、この話はなかったことにして欲しい、と申されます。  わたくしたちは、歯ぎしりをしてこらえました。何も鈴子さんばかりが、女ではありますまいし、一生|懸命《けんめい》、努力して、昔《むかし》までは行かなくても、一応、しっかりした地位まで行けば、鈴子さんより、顔も心も美しい、お嫁《よめ》さんはいくらでもあるから、などと元気をつけてなぐさめました。兄も口では、もうそんなことは、気にしない、などと申しておりましたが、それからは、おとなしかった兄が、恐《おそろ》しいまでの変りよう。飲みなれないお酒などを、ガブガブあおるようになりまして、わたくしも心を痛めておったのでございます。  それに、鈴子さんのお嫁入りの先が、一つはいけませんでした。  この吉村さんの旦那《だんな》さん、一夫さんといいますのが、前には家につとめておりました子飼《こがい》の商人。それも、ずいぶんひどいことをしまして、家が没落《ぼつらく》しましたのも、半分はこの人のせいといってもよろしいのです。  父なども、最後には、ずいぶん恨《うら》んでおりました。あいつのおかげで、先祖代々、伝えられた、この家を滅《ほろ》ぼさなくちゃならないのか。ご先祖さまにも申しわけがないなどと、涙《なみだ》を流して死んで行きました」 「よくありがちのことですが、何といってもお気の毒なお話ですね。それで」  神津恭介も、さすがに暗然としたものを感じて、ひくい声で、涙をハンケチでぬぐっている、女の言葉をうながした。 「兄はその夜、例のように、屋台かどこかで焼酎《しようちゆう》や何かを、ヘベレケになるまで呑《の》んでおりました。そして、何が何だか分らなくなって、家へ帰って来る途中《とちゆう》、ふしぎな女に会ったのです。  兄の言葉によりますと、それは黒い洋装《ようそう》で、黒っぽいフードで顔をかくした女だといいます。  ——本間さんじゃございません。  兄もギクリとしたそうです。誰《だれ》か見おぼえのない女。顔をしきりに、のぞきこもうとしたそうですが、酔《よ》っていた悲しさと、女が顔をそむけたために、どんな顔をしていたのか、分らなかったということです。  ——わたくし、ちょっとあなたにお願いがございますの。わたくしの家まで、一緒《いつしよ》に行っていただけません。  兄もやっぱり、若い身ですし、ことにその時は、酔ってもおりましたから、何気なく、その女のあとをついて行ったと申しますが、思えば、これが身の破滅《はめつ》でもございました。  どこまで歩いて行きましたのか、おぼえもなかったと申しております。  いつの間にか小ぎれいな、家の中へと通されて、その座敷で、坐《すわ》っておったというのです。  人の気のない家でしたとか。ただ、兄には酔《よ》いどれた頭にも、この部屋《へや》は、どことなく見おぼえのあるように思われました。  女はフードをぬぎません。  ——ちょっとお待ちになって下さいね。  と、いいおいて、どこかへ出て行ったというのです。  兄にも好奇心《こうきしん》が、湧《わ》き起りました。そのままツッと部屋を出て、女のあとを追いました。女は、庭へ出たかと思うと、物置小屋の戸を開けて、その中へ入って行ったそうです。そして、ゲラゲラ、甲高《かんだか》い声で笑ったというのでした。  兄もびっくりしてしまいました。酔《よい》もいつしか、さめたのでしょう。女が気でも、狂《くる》ったのではないか、と考えたのでしょう。  ガラリと、物置の戸を開けました。  すると、女がその中の、古自転車のサドルに腰《こし》をおろして、坐《すわ》っていたというのです。フードは耳のあたりまで、いや、耳のあるはずのところまで、おしあけられておりました。  しかしその女の顔は、全然ついていなかったのです。いえ、首から上が、すっぽりあいていたのです。  そればかりではありません。女は首を抱《だ》いていました。自分自身の生首《なまくび》を、その膝《ひざ》に、子供のようにかかえあげて、気持よさそうに愛撫《あいぶ》していたというのです。  しかもその、生首はパッチリと眼をあけて、兄の方に、ニコリとほほえみかけた、というのでした……  もちろん、兄はキャーッと、一声高く悲鳴を上げると、おどり上ってその場を逃《に》げ出しました。  どこがどこだか、さっぱりおぼえておりません。気が狂《くる》ったように、畑をぬけ、溝《みぞ》を泳ぎ、息を切らして、家へ飛びこむと、バッタリ倒《たお》れて、それからは、たえずわけの分らぬ譫言《うわごと》ばかりいっていたのです。  医者を呼んで、帰って来るか来ない中に、警察から刑事《けいじ》が家に来ていました。  鈴子さんが、殺されたというのです。しかもその死に方というのは、自転車の鎖《くさり》で、首をねじ切られていたというのです。  兄がつれて行かれたのは、鈴子さんの家でした。両親と別居した、夫婦が暮《くら》している家でした。  旦那《だんな》さんも出張、女中も留守で、一人で家を守っていた、鈴子さんが物置で、非業《ひごう》の最期をとげたのです。  その家から、飛び出して来る兄の姿を、折あしく、見とがめた者があったのです。  ふしぎに思って、のぞいて見ると、こういう事件が起っていたのを、発見出来たというのでした。  こういう、奇怪《きかい》な物語を、誰《だれ》がほんとうにしてくれましょう。警察でも、検事局でも、兄を狂人《きようじん》かと思ったそうです。それからは、犯行をごまかそうとするための、馬鹿《ばか》げた作り話かと思ったそうです。  コルサコフ氏病ではないか、などいう者もありました。しかし結局、兄はそのまま留置され、起訴《きそ》され、未決に収容されてしまったんです。恐《おそろ》しい、殺人罪の容疑者として……  神津先生、先生はこれをどうお考えでございましょう」 「さあね」  神津恭介も、この話には呆然《ぼうぜん》とした。あまりにも、常軌《じようき》を逸《いつ》した、この世のものとも思えない、怪奇《かいき》に満ちた物語。これならば、無実の罪を云々《うんぬん》する方も、かえってどうかしているのではないか。  その心の動きを見すかすように、女はふたたび、いい出した。 「わたくしも、最初の中は、兄の言葉を、信用出来ませんでした。先生が、不思議に思われるのも、決してご無理とは思えません。  しかし、わたくしも、昨夜、その首のない女をこの目で見たのです」 「何ですって」 「たしかに首のない女でした。わたくしの家の庭を、ヨロヨロと当もない様子で歩き廻《まわ》っていました。大きな黒いフードで顔を横から包み……  しかし、その女がだんだん、わたくしの部屋《へや》に近づいて、窓から中をのぞきこんだ時、わたくしは、思わず悲鳴を上げたのです。  気も狂《くる》わんばかりの思いでした。  たしかに間違《まちが》いありません! 女には、首がどこにもなかったのです!」     3  この怪奇《かいき》を極めた物語は、神津恭介の心の中に、はげしい好奇心《こうきしん》と、闘争意慾《とうそういよく》を燃え上らせた。  幻想《げんそう》か。女が嘘《うそ》をいっているのか。  だがそのかげには、戦慄《せんりつ》すべき犯罪がある。その殺人の容疑者として、未決の獄舎《ごくしや》に収容された、前途《ぜんと》ゆたかな青年がある。  それにしても、首をねじ切られて死んだ美女の死体と、凶行《きようこう》に使った自転車の鎖《くさり》と、首のない幽霊《ゆうれい》のような女の出現と、このぶきみな三つのとりあわせが、恭介の心を、文字通り震《ふる》え上らせてしまったのだ。  彼は、女とともに、T市を訪れようと決心した。そして、自分自身の眼で、その首のない女の出現を、たしかめようとしたのであった。  だが彼は、一言、念をおすのを忘れなかった。 「僕は弁護士でも、専門の捜査官《そうさかん》でもないのですからね。一人のアマチュア犯罪学者として、出来るだけのお手伝《てつだ》いはいたしますが、万一、お兄さんが有罪だったとしたら、その罪を軽くしたり、無罪にしたりはできませんよ」 「ええ、それで結構でございます。わたくしの気持は、いまのところ、溺《おぼ》れる者が藁《わら》をもつかみたいようなものです。先生に、お骨を折っていただいて、それでもだめとなりましたら、止《や》むを得ません。ですが、きっと兄の無実も分りますわ」  その時の女の眼は、まるで何かに憑《つ》かれたような色だった。兄妹愛というよりも、それは熱烈な、恋愛《れんあい》の感情にも似ていたのだ。  神津恭介の鞄《かばん》には、T市の警察署長にあてての、警視庁|捜査《そうさ》一課長、松下英一郎の紹《しよう》介《かい》状《じよう》が秘められていた。  T市につくと、彼は良子を家に帰し、単身警察署を訪れた。  戦災で、焼け落ちた町であったが、復興の手は思いのほかに進んでいた。  戦争前に、恭介がこの街を訪れたときには、駅から降りて受けた感じは、古風な落着きと品格が、一軒《いつけん》一軒の建物から、くすんでにじみ出しているような、夢《ゆめ》とむかしの伝統が、払《はら》っても払いのけても、どこかにひそんでいるような、そうした感じの城下街だった。  だが今は、東京の場末の繁華街《はんかがい》にでもありそうな、落着きのない、ケバケバしい原色の色彩《しきさい》が、通り全部を彩《いろど》っていた。  急ごしらえのカフェーから、軋《きし》ったようなレコードが、狂《くる》わしいメロデーをまき散らす。いっぱいに人を詰《つ》めこんだ、乗合自動車が、空っ風とともに、濛々《もうもう》とした砂塵《さじん》をまき上げて走り去る。  良子の家が、没落《ぼつらく》したのも、決してその父一個人の罪ではないと、恭介はその後姿《うしろすがた》をじっと見送ったときに感じた。  新築の、木の香《か》も新しい、警察署の二階で、彼はこの事件の捜査主任にあった。  そして、次のような恐《おそろ》しい事実を聞かされたのである。  鈴子の死は、麻酔剤《ますいざい》をかがされた上、自転車の鎖《くさり》で、絞殺《こうさつ》、その上に強い力で筋肉を破り、骨を断って、首をねじきったものであること、その死亡時刻は、当夜の十二時前後と推定されたのであった。  家の中には、寝室《しんしつ》に蒲団《ふとん》がしいてあり、鈴子も燃えるような、長襦袢《ながじゆばん》に着かえていたが、まだ床《とこ》についた形跡《けいせき》はなかった。  物置には、錠《じよう》はかかっていなかったが、別にこれというものもなく、家の方には、どこにも無理に侵入《しんにゆう》したようなあとはない。  当日、鈴子の夫、吉村一夫は、その町の料理屋、「ひさご」で一夜を過していて、そのアリバイは、女将《おかみ》の木村菊子によって確認されている。  被疑者《ひぎしや》の本間|馨《かおる》の家には、田舎《いなか》から出て来た親類が一夜を明かしていたが、馨が血相変えて帰って来て、井戸で手を洗っていたのを見たという。良子はそれまで、家から一歩も外には出ずに、その親類と談笑をつづけていたのである。  馨は、十一時ごろまで、駅の近くの屋台店で、したたか焼酎《しようちゆう》を飲んでいたが、その後のアリバイは、全然立たない。どこでどう、過していたか、という質問に対しては、良子が恭介に語ったような、奇怪《きかい》な物語をしただけであった。その一方、彼のズボンについていた血痕《けつこん》は、たしかに鈴子の死体の血液型と一致《いつち》したのである。  これが大体、捜査《そうさ》主任が恭介に、話したことのすべてであった。 「非常にたしかな証拠《しようこ》のようですね。しかし直接な証拠といってもないわけですね」 「その通りです。神津さん、もしも首のない女が、この世に生きていたら、我々も彼を逮捕《たいほ》はしなかったでしょうが」 「その女を見た人間が、もしあったとしたら」 「それは誰《だれ》です」 「妹の良子さんが、たしかに自分の家の庭で、その女が歩いているのを見たそうです」 「いけませんな。あの兄妹《きようだい》の愛情は、一種格別なものですよ。外部からの打撃《だげき》に、打ちひしがれるほど、その結びつきも、いよいよ強固になるんです。兄妹というより親子で恋人《こいびと》同士といいたいくらいの間です。兄を救おうとするために、見えすいた嘘《うそ》をいおうとすることも、決してないとはいえんでしょう。  別に、あの人を責めようというのでは、ありませんが、検事や法廷に、そんな話を持ち出したところで、笑われるのが落ちですよ」 「確実な第三者が、その姿を目撃《もくげき》しなければですね。そして首のない女が、第二の犯行をくり返そうとしなければですね」 「首があっても、なくっても、女にあんな犯行はできませんとも」 「どうしてです」 「人間の首を、自転車の鎖《くさり》でねじ切るなどいうのは、男の力、それも血気|盛《さか》んな男の力でなければ、出来ることじゃありませんとも」 「それが、あなた方の、彼を犯人と目した理由なんですね。いや、お忙《いそが》しいところ、お手間をとらして、申しわけありませんでした」  神津恭介は、帽子《ぼうし》をとり上げて、警察署を後にした。  雪雲の低くたれこめた、灰色の空が、鉛《なまり》のように重苦しく、彼の心を圧していた。  検事局でも、弁護士の家でも、光明は何一つ、見出すことが出来なかった。その年とった弁護士などは、被告《ひこく》の精神|鑑定《かんてい》が、いまとなっては唯一《ゆいいつ》の活路だなどと、心細いことさえいっていたのである。  やむを得ず、彼はそのまま本間家を訪ねて行った。  たしかに宏壮《こうそう》な屋敷《やしき》である。だがその構えが堂々としていればいるだけ、その屋根の棟《むね》の上から、大きな黒塗《くろぬり》の四脚門《しきやくもん》に、荒《あ》れはてた庭の一木一草に、ただようものはただ落魄《らくはく》の影《かげ》であった。 「どうなさいまして」  良子の顔には、蔽《おお》い得ない、憂慮《ゆうりよ》の色がみなぎっている。 「だめです。どこでも、相手にしてはくれません」 「まあ、やっぱり」  良子は、両肩《りようかた》をぐっと落して吐息《といき》をついた。 「だいたい、こんなわけですが、僕《ぼく》はまだまだ力を落してはいません。明日《あす》は、その殺人の現場へ行って調べて見ましょう。一度、お引き受けをしたからには、出来るかぎりのお力にはなりますよ」 「先生、ありがとうございます。何とお礼を申しましょうか。兄も定めし、涙《なみだ》を流して喜びましょう。今晩はどうなさいます」 「どこか、旅館を探すつもりですが」 「家へお泊《とま》り下さいまし。何もおかまい出来ませんが」 「でも、あなたお一人の所へ、見知らぬ男が泊ったら」 「かまいません。兄のためなら、どんなことでもいたしますわ。それに今夜にでもまた、あの首のない女が、あらわれないとも限りませんし……」  その一言で、彼の決心もきまったのだ。  貧《まず》しいが、心のこもった夕食をとり、離《はな》れの一室に入って、彼は深い瞑想《めいそう》に耽《ふけ》りはじめた。  何時間かの時間が過ぎた。  コトコトと、雨戸を叩《たた》く音がする。戸の外に、かすかに人の気配がする。  彼はハッと思って立ち上った。その部屋《へや》は日本間だったが、その隣《となり》の洋室は、雨戸が閉らぬ洋間だった。  その部屋に入った彼は、窓からそっと庭の闇《やみ》の中をすかして見た。  女が庭にひそんでいる。黒いオーバーに、黒のフード、その顔はかくれて、何も見えなかった。  パッとスイッチをひねるが早いか、彼の手はすばやく窓をおし開いた。  アッ。  かすかな声が、思わず彼の口からもれた。  その光に、ハッと振りかえった女の顔は、どこにもついていなかったのだ。  フードの裏が見えている。顔のあるべき場所を透《すか》して、向うが透《す》けて見えるのだ。  この世のものとも思われない、それは奇怪《きかい》な女であった。目に見えぬ、透明人《とうめいじん》の出現だった。  一瞬《いつしゆん》、ハッと立ちすくんだ恭介が、窓の框《かまち》を乗りこえて、女にとびかかろうとした時である。  女は右手を高く上げた。その手には、黒光りのする拳銃《けんじゆう》が光っている。  進みもならず、退《ひ》きもならず、だまってそのまま立っていた、恭介をあざけり笑うように、女は二、三歩後じさりした。  そして身をひるがえすと、たちまち暗い闇《やみ》の中へと消えたのである。  耳をすましても、聞えて来るものといっては、静かな川の流れの音。つめたい風の吹《ふ》きすさぶ音。  人の気配も聞えて来ない。  恭介は思わず五官を疑った。いつしか、遠くこの世を離《はな》れて、怪異《かいい》の世界、あやかしの夢幻境《むげんきよう》へと踏《ふ》みこんだのではあるまいかと。  違《ちが》う。決してそんなはずはない。  首のない女は、たしかに存在する。  あの物語は、幻想《げんそう》でも架空《かくう》の怪談《かいだん》でもなかったのだ。     4  神津恭介は、さっそく母屋《おもや》へかけつけて、興奮に震《ふる》える良子を呼びおこした。  そして、二人で庭中探し廻《まわ》ったが、別にこれという、手がかりは発見できなかった。  雲間を破った、冬の月光が、燦々《さんさん》と降りそそぐこの庭の端《はし》、ゆるやかに流れる川の岸に立って、二人は顔を見あわせた。 「先生、このあたりだけ、重い物が転ったようなあとがありますわね。ひょっとしたら、ここから首のない女が……」 「川へ滑《すべ》り落ちたとでもいうんですか。この川は、いったい何という川です」 「早瀬川《はやせがわ》と申しまして、ここから市中を貫《つらぬ》いて、利根川《とねがわ》に合流しますのよ。  あッ、先生! 向うに舟が!」 「何ですって!」  その瞬間《しゆんかん》、ふたたび湧《わ》き上って来た黒雲が、月の光を蔽《おお》いかくした。  と思うと、良子ははげしい興奮をこらえ切れなくなったのか、ガバリと恭介の胸に、身を投げて、よよとばかりにすすり泣いた。  わずか数枚の着物を通して、やわらかな女の体の触感《しよつかん》が、沈丁花《じんちようげ》の花のような、熟《う》れた香気《こうき》をともなって、恭介の心をゆすぶりつくすのだった。  ふたたび、月が出たときには、舟の姿など、どこにも見えなかったのである。 「良子さん。吉村さんの家というのは、どの方角にあるんです」 「この河の下流になっておりますが」 「それでは、ひさごという料理屋は、どこにあります」 「それもこの川に沿って、この家と吉村さんの家との間にありますのよ」 「そうですか。大分いろんなことが分って来ましたね」  彼は、闇夜《やみよ》にそれと分らぬくらいの、かすかな微笑《びしよう》を浮《うか》べたのだった。  二人とも、まんじりともせずに、一夜を明かしていた。そしてその翌朝、昨日《きのう》恭介が会ったばかりの捜査《そうさ》主任が、この家を訪れて来たのであった。 「おや、神津さん、昨夜はこちらにお泊《とま》りでしたか。ちっとも知らなかったので」 「いや、ここへ泊《と》めていただいたおかげで、珍《めずら》しいものが見られましたよ。首のない女はたしかに生きていました。僕《ぼく》もまた、その女が歩いているのを見たんです」  主任は、さっと顔色をかえた。 「それでですね。神津さん、昨夜の十二時前後ですが、良子さんのアリバイはありますかしら」 「十二時前後といいますと、あの女があらわれたころですね。いやたしかに、その少し前に、良子さんは僕の部屋《へや》にあらわれましたし、それから後は、二人でずっと夜通し起きていましたが」 「それは何よりのことでした」  主任は、安心したような笑いを浮《うか》べた。 「どうしたんです。そのアリバイが、何かに役に立つんですか」 「ええ、昨夜の十二時ごろのことでした、殺された、吉村鈴子さんのご主人、一夫さんが首をねじ切られて殺されました。今度も同じく、自転車の鎖《くさり》が首にまきついて……首のない女というのは、いったいどういう怪物《かいぶつ》なんでしょう」  神津恭介は、その足で、捜査《そうさ》主任や、良子とともに、死体が発見された現場にかけつけた。  川を下って一里半ほど、下流へ行った浅瀬《あさせ》の上に、一隻《いつせき》のボートが乗り上げていたのである。  その中には、これはどうしたことだろうか。黒いオーバー、それも女のオーバーを、まとった男の死体が、生々しく横たわっていたのである。  頭には、黒いフードがかかっている。  だが、首は胴体《どうたい》から、無慙《むざん》に切断されていた。カッと両眼を開いたまま、舟の舳《へさき》に、ゴロリと転がっているではないか。その首のまわりに二重三重、金属の蛇《へび》のように、黒いとぐろを巻いているものは、切れた自転車の鎖であった。 「第一の殺人と、まったく同じ手口です。同一人の犯行としか、思われないことなんです」  捜査主任が、恭介の耳にささやいた。  良子はワナワナと、木の葉のように震《ふる》えている。これ以上、青ざめようもあるまいと、思われるほど血の気を失った顔の上に容赦《ようしや》もなく、冬の烈風《れつぷう》が、ハタハタと吹《ふ》きつけて来るのであった。 「このボートは、どこのものです」  静かな神津恭介の声。 「本間さんの家の少し上手《かみて》が、遊園地になっていましてね、そこの貸ボート屋のボートに違《ちが》いありません」 「なるほど、それでは問題はどこからこのボートを流したかということですね。被害者《ひがいしや》は、昨夜はどこにいたのです」 「十時ごろまで、たしかに家にいたことは分っています。床《とこ》につくといって一度は自分の部屋《へや》へもぐりこんだようですが……」 「その後は、どうしたかは分らないというわけですね。大胆不敵《だいたんふてき》な犯人ですよ。被害者の家も、やはりこの川岸に沿っているというと、どういうことになりますかしら」  恭介は、広い額《ひたい》に手をあてて、しばらく考えこんでいた。  間もなく、警察の検死も終った。昨日にくらべて、捜査《そうさ》主任をはじめ、署員一同の態度はすっかり変っていた。自分たちの確信が、崩《くず》れたという敗北感が、無意識の中に、この名探偵《めいたんてい》の才能に対する、尊敬と信頼《しんらい》の情となってあらわれたのだろう。  車はふたたび、引き返して、吉村家の捜索《そうさく》が始った。妻を殺された彼としても、孤独感《こどくかん》には耐《た》えきれず、といっても世間の手前もあってであろう。新たにお手伝いをやとい入れて、一緒《いつしよ》に暮《くら》していたというのである。  だが、色白のこの女の尋問《じんもん》によっても、得るところは何もなかった。  別に犯人が、侵入《しんにゆう》したような形跡《けいせき》といってもない。勝手口の戸じまりが、中から外れていただけだった。  恭介は、鈴子の死体が発見された物置にも、するどい視線を走らせたが、どことなく、プーンと生血の臭《にお》いがただよっているように思われるばかりである。これという手がかりも何もなかったのだ。  つづいて、一行の車は料亭《りようてい》「ひさご」に向った。 「ここの女将《おかみ》のお菊《きく》さんというのは、殺された、吉村一夫のコレなんですよ。芸者上りでずいぶん気の強い女ですがね」  車を降りた捜査《そうさ》主任が、恭介の耳にひそかにささやいた。  小ぢんまりした店である。ただ木口も建築も、思いのほかに行きとどいて、真新しい檜《ひのき》の香《か》が、ほのかに鼻に匂《にお》って来る。 「おかみは家かい」  先頭に立った刑事《けいじ》が声をかけた。 「それが大変なんですのよ。昨夜、夜中に首のない女が、舟に乗って、川を下りて行くのを見たんですって。それからひどい熱が出て、譫言《うわごと》ばっかりいっていますの」  目のクリクリとした、背のひくい女中が答えた。 「首のない女を見たって」  主任は、途端《とたん》に恭介と眼を見あわせた。 「ちょっと君、昨夜は旦那《だんな》さんは来なかったかい」 「旦那さん、さあわたくしは存じません。でも、おかみさんのお部屋《へや》で、夜中にボソボソ、男の声がしていました」 「その部屋には、表からでなくとも入れるかね」 「はい、裏の木戸からなら入れます」  ふたたび主任は恭介に、曰《いわ》くありげな視線を投げた。  凝《こ》ったつくりの石庭に面した、離《はな》れの一部屋が女将《おかみ》の部屋、窓からは、すぐ眼下に早瀬川の流れが見える。 「そこへ来たの、だあれ」  甲高《かんだか》い、さびのある声であった。 「警察の者ですが、失礼します」 「まあ」  蒲団《ふとん》の上に起き直って、黒襟《くろえり》の夜着の胸元をかきあわせる、その姿態《したい》も何となく、仇《あだ》っぽかった。眼尻《めじり》にちょっと険《けん》があって、前身がはっきりあらわれているような、小粋《こいき》な体つきだった。 「まあ、主任さん、しばらくでしたわね」 「体が悪いっていうじゃないか」 「ええ、昨夜|恐《おそろ》しいものを見たのよ。桑原《くわばら》、桑原。ところでそちらのお方はどなた」  主任とは、見知りごしの仲なのだろう。口のきき方さえ、どことなく軽々しかった。 「こちらの方はね、今東京で売出しの神津恭介先生、という名探偵《めいたんてい》。ところで商売の方はどうだい」 「金づまりで、いっこういけませんのよ。税金は重いし、廃業《はいぎよう》しようかと思うくらい」 「そんな話ってあるもんかい。そっちには大黒様がついてるんじゃないか。ところで、昨夜|旦那《だんな》は来たかい」 「旦那なんて、この所ちっとも来てくれないわ。奥《おく》さんに死なれてからすぐじゃ、近所の手前もあるだろうし、ひょっとしたら、ほかにいい子が出来たのかも知れないわ」 「嘘《うそ》をついちゃいけない。昨夜やって来た男って誰《だれ》だい」 「まあ、いいがかりをつけるのはよしてちょうだい。男なんて猫《ねこ》だって膝《ひざ》に上げないくらいなのよ」 「かくすね。まあいい、ところで昨夜、何を見たんだ」 「あのね。夜中に息苦しくなって庭へ出たら、目の下の川をボートが流れて行ったの。そして、あの、鈴子さんが殺された時に、馨《かおる》さんが見たとかいう、首のない女が一人、乗っていたじゃありませんか。わたしも震《ふる》え上ったわ。それからこうして熱が出て、まだ寒気がおさまらないんですのよ」 「そのボートに、旦那さんが殺されて、のっていたことに、君は気がつきはしなかったかい」 「まあ!」  女の顔は、とたんに青ざめてしまっていた。熱がグッと、一度に体を襲《おそ》ったように、震《ふる》えながら、主任の顔を見つめた。 「君は前には、自転車屋の、熊城三次郎という男となじみだったねえ。あの男とは、それからどうしているんだい」 「知りゃしないわ。知るもんですか、そんなこと」 「まあ、いい、今に何もかも分るさ、おや、神津先生、どうしたんです」  恭介の眼は、床《とこ》の間に置かれてあった、小さな二枚の鏡にそそがれていた。 「これは何です」 「いいえ、何でもありませんわ。お手洗の大きな鏡が割れたので、それをとりかえましたのよ。その時、切って作ってもらったんですわ」 「ちょっとこれを、僕《ぼく》に貸して見て下さいね」  神津恭介は、その二枚の鏡をとり上げて、部屋《へや》から廊下《ろうか》へ出て行った。 「どうしたんでしょう」 「どうしたのかね」 「雨戸を閉めてくれませんか」  廊下の外から、鋭《するど》く恭介がいいはなった。  主任が立ち上って、雨戸を閉めると、部屋は黄昏《たそがれ》のような暗さに包まれる。 「障子を開けて見て下さい」  廊下も雨戸が閉っていた。その薄暗《うすくら》がりの中に、恭介は両手を顔のあたりに上げて立っていた。  黒い帽子《ぼうし》を眼深《まぶか》に冠《かぶ》り、オーバーの襟《えり》を立て、マフラーをフードのように横にかけて、塑像《そぞう》のように立っていた。  だがその顔は、その首は、どこにも見えないではないか。帽子《ぼうし》が宙に浮《う》いている。マフラーが後まで透《す》いて見えるのだ。 「ハッハッハ、とんだ手品の種明し、よく縁日《えんにち》の見世物にある、胴無《どうな》し美人の応用ですよ」  声だけが、かすかに、どこからか響《ひび》いて来る。ぶきみな低い声であった。  と思うと、恭介はパッと両手を動かした。見る間に、美しい若々しい魅力《みりよく》に満ちたその顔が、帽子の下に浮《うか》び上って来たのである。 「こんな風に、二枚の小さな鏡を直角にあわせるんです。そして横をフードか、マフラーでかくすんです。それをこうして顔の前にあてればこれで、首のない人間が出来るんですよ。種を明せば手品だなんて、こんな簡単なものですがね。  つぎ目がちょっと気になりますが、時間があればもう少し、完全なことも出来たでしょう。両手でおさえたりせずに、自由に動き廻《まわ》れたでしょう。これが、この世にあるとも思われない、首のない女の正体なんですよ」  神津恭介は、にっこり笑っていたのだった。すべての秘密を見破ってしまったというように、莞爾《かんじ》と微笑《びしよう》していたのだ。 「それじゃあ、その女はいったい誰《だれ》なのでしょう」  捜査《そうさ》主任の言葉に対し、恭介は思いもかけない一言をもらした。 「そこまで僕《ぼく》にはいえません。あとは個人の良心の問題ですね」     5  警察署には、自転車商の熊城三次郎が、よび出されていた。  四十前後の、苦味走った好男子、だがその顔も青ざめて、両膝《りようひざ》の上においた手が、ガタガタと震《ふる》えている。それとともに、絶間《たえま》ない貧乏《びんぼう》ゆるぎが伝わっていた。 「昨夜の十二時ごろには、どこにいました」  鋭《するど》く肺腑《はいふ》をえぐるような、司法主任の質問である。 「その、それが」 「家にはいなかったそうですね。『ひさご』へ行ってたんじゃないのかい」  男はギクリとしたようだった。 「そうだろう。焼け木杭《ぼつくい》に火がついたんだろう」 「すんません。つい悪いこととは知りながら誘いの水にのっちまって」 「まあいいさ。それだけならば、別に法律上の罪になる、というわけでもないからね、それだけならば、だよ。  ところで、その時、何か奇妙《きみよう》なことは起らなかったかい」 「それがその……十二時ごろのことでした。酔《よ》っぱらって、大分上気してしまったんで、少し風でも入れようと、窓を開けて見たんですがね。その時、眼の下をボートが降りて行くじゃありませんか。  こんな夜更《よふけ》に、誰《だれ》が漕《こ》いでいるんだろうと、じっと眼をすえて眺《なが》めたら、驚《おどろ》きましたねえ。首のない女が一人、中に坐《すわ》っているんです。黒いオーバーの襟《えり》の中から、赤黒い切口が、西瓜《すいか》を割ったようでした。  私も思わず震《ふる》い上っちまいました。それっきり、お菊もひっくりかえっちまうし、そのままにもしちゃおけねえんで、着物をぬがせて、床《とこ》の中に入れると、あわてて逃《に》げて来たんです」 「それじゃあ、君はまだ、吉村一夫さんが殺されたことは知らないわけなんだね」 「えッ、旦那《だんな》が殺されたんですか」 「そうだとも、首を切られて、ボートにのっけられていたんだ。ところでその首を切るために、使ったものは何だと思う」 「…………」 「鎖《くさり》なんだよ。自転車に使う、鋼鉄《こうてつ》のチェインなんだ。君には商売道具だね」 「私は何にも知りません。旦那を殺しなどしません」 「まあ、よく落着いた方がいいよ。何も、君が殺したなどといっちゃいない。だが、あのチェインで首をねじ切るなどというのは、女の手などじゃ出来まいね」 「そりゃあ……たしかにそうでしょう」 「君とお菊さんとの関係が、吉村さんに知れたなら、君たちも身の破滅《はめつ》だったというわけだね」 「でも旦那《だんな》は、このごろ外にいい子が出来て、お菊さんを袖《そで》にしていたようですよ」 「それとこれとは関係ないさ。ただ君にも、殺人の動機があるっていってるんだよ。ところで君の昨夜見た女は、ああいう女かね」  扉がギーッと開いて行った。そしてその薄暗《うすぐら》い隣室《りんしつ》には、黒衣をまとった顔のない女が立っていたのである。 「キャーッ」  一声高く悲鳴を上げて、男はその場に倒《たお》れてしまった。 「神津先生、神津先生」  司法主任は、その隣《となり》の室へ声をかけた。 「まんまと計画図にあたりましたよ。おや、神津先生、どちらへおいでになったんです」     6  そのころ、神津恭介は、本間家の一室で、一足先に帰宅していた、良子の前に坐《すわ》っていた。 「良子さん、警察では、『ひさご』の女将《おかみ》のお菊さんと、自転車屋の熊城三次郎という男に、疑いをかけたようですよ。二枚の鏡で顔をかくし、そのどちらかが顔のない女となってあらわれたんじゃないか。そうして、お兄さんを無実の罪におとしいれたんじゃないか、とそういう意見に傾《かたむ》きました」 「まあ」  良子の顔には、みるみる中に、かすかな紅潮が浮《うか》び上った。 「あなたの一念も、これで通ったわけですね。ところで分らないことが一つ。なぜ昨夜、その首のない女がここにあらわれたのか。その前の夜から、あなたを脅《おど》かしていたか、ということが、僕《ぼく》には納得《なつとく》できないんです。お宅に自転車はありませんか」 「はあ、一台でございますけれど、物置にしまってありますわ」 「そのチェインは大丈夫《だいじようぶ》でしょうか」 「とおっしゃいますと」 「もしも彼らが、その鎖《くさり》を盗《ぬす》もうとしていたらですね。あの首を巻いていた、その鎖がお宅の自転車からとったものだとしたならば」  良子もハッと顔色を変えた。この言葉の裏にひそんでかくれている、恐《おそろ》しい意味に気づいたのであろう。 「わたくし、見てまいります」  立ち上った良子の袖《そで》を、彼はおさえた。 「僕《ぼく》も一緒《いつしよ》に行って見ましょう」 「でも……汚《きたな》いですのよ」 「かまいません」  良子は別に、拒《こば》もうともしなかった。  物置は、玄関《げんかん》から、冠木門《かぶきもん》の内門を潜《くぐ》ってすぐの所にあった。これというものもない。ただ古ぼけた自転車と、わずかばかりの燃料が、隅《すみ》に一かたまりになっていた。 「なるほど、鎖《くさり》はついていますね」  神津恭介は、安心したような口調だったが、急に顔色を変えると、床《ゆか》の上にかがんで何かを拾い上げた。 「良子さん。これはいったい何でしょう」 「存じません」 「男のワイシャツのカフスボタンです。吉村さんの死体のシャツも、たしかにカフスボタンが片方落ちていました」  女はたちまち色を変えた。よろよろとよろめいて、トタンの壁《かべ》に、ガタンとその背をもたれかけた。 「先生、それじゃあ、あの二人が」 「まあ、お座敷《ざしき》へ帰りましょう。ここは暗くていけません。何をしているのかと、ふしぎに思われると悪いですからね」  女は首をたれながら、彼の後にしたがった。 「良子さん。あなたはいま、心に何か淋《さび》しいものを感じませんか」 「それは……いったい何でしょう」 「あなたは、自分の家を没落《ぼつらく》させた、吉村さんが死んだので、何だかホッとしたでしょうね。しかし同時に、良心の呵責《かしやく》を感じなければ幸せなんですが」 「…………」 「僕《ぼく》の友人が考えた、探偵《たんてい》小説の筋をお話しして見ましょうか。今度の事件に、実によく似たお話です。  ある町に、二人の兄妹《きようだい》がありました。兄の恋人《こいびと》の女は、彼を棄《す》て、ほかの男と結婚《けつこん》しました。その相手の男というのは、一時はその妹の方を愛したこともあるのです。  兄は女を呪《のろ》いました。妹は男を憎《にく》みつくしました。その外の理由もあって、兄は最後に女を殺そうと思ったのです。  いくつかの準備はもちろん、してありました。ある理由から、その町の自転車屋は最も嫌疑《けんぎ》をかけ易い人物でした。そのために、彼は自転車のチェインを使って、女の首をねじ切りました」 「神津さん!」 「待って下さい。これはあくまで、探偵小説の中の事件なんですから。  いくつかの準備がむだになったのは、ある偶然《ぐうぜん》の結果でした。その犯人は、女の家から出るところを、ある人間に見とがめられてしまったのです。  男は逮捕《たいほ》されました。もうこうなってはどんな準備も役に立ちません。男が窮余《きゆうよ》の策として、咄嗟《とつさ》に思いついたのは、自分が手にかけて命をとった、今の死体から思いついた首のない女の怪談《かいだん》を、そのまま述べ立てることでした。  後に残された妹には、どんな方法が残っていたか。奇想天外《きそうてんがい》の思いつき。妹はそのありもせぬ、架空《かくう》の女に、実在性を与《あた》えようと計画したのです。  自分は第一の事件には、完全なアリバイが立っている。いま一度、同じく首のない女を出し、同じ方法で殺人を行いさえすれば、兄の嫌疑は晴れるだろうと、この上もなく恐《おそろ》しいことを考えつきました。  首のない女のトリック、これは二枚の鏡によって、どうにか打開出来ました。この上は信頼《しんらい》出来る第三者に、その存在を確認させればいいのです。  その上に、一度自分を棄《す》てた男が、兄を失って身も世もあらぬ思いを続けている妹に、またも誘《さそ》いの手をのべました。そして、妹の方に、こうした奸計《かんけい》があるとも知らず、毎晩毎夜、その家にたずねて来るようになったのです。  妹は、ある晩、自分のアリバイを作った上で、男のあらわれて来るのを待ち、何かの方法で昏倒《こんとう》させ、チェインで首をねじ切りました。もちろん、女の力では、出来ることではありません。しかし、自転車にかかったチェインを外しておき、切れたチェインを別に準備し、その一端をどこかに固く結びつけ、環《わ》をつくって、首にかけ、別な端《はし》を自転車の歯車にかけて、ペダルを踏《ふ》んで行けば、環は段々に縮まります。この原理に従って、普通《ふつう》の力の何倍かが、鎖《くさり》にかかって来るのです。  首をねじ切った死体は、その近くの川に浮《うか》べていた、ボートの中に入れました。その死体には、首のない女の服を着せました。  オーバーも、フードも二つ、準備してあったのでしょう。そして、別な一着を身につけると、その家の別なところにあらわれて、首のない女の出現を装《よそお》ったのです。  首を切る時には、血も流れたでしょう。運搬《うんぱん》の途中《とちゆう》にも、苦心があったに違《ちが》いありません。川の水は、そうした汚物《おぶつ》のすべてを呑《の》みこんで、あばき出そうとしなかったのです。  何時間かがかかったでしょう。女はその間に、別な人間のところにちょくちょく、顔を出して、巧《たく》みにアリバイを作ったのです。  男がこうして、自分の家を訪れて来ることなどは、誰《だれ》知る者もないのですから、あとは川の流れが、すべてを解決するのです。  偶然《ぐうぜん》にも、この事件の関係者のほかの二人が、女の着物を着せられた、首のない男の死体をのせて流れる、このボートを目撃《もくげき》したのです。  幸いにも、首のない女の出現は、ここに三人の目撃者を得たのです。  これが成功しさえすれば、兄もまた無実の罪で釈放されるのではないかと、復讐《ふくしゆう》と愛情の複雑に交りあった、妹の恐《おそろ》しい、しかし同情に値する犯行だったといえるでしょう」 「神津先生!」 「自分のことだと思ってはいけません。これはあくまで、探偵《たんてい》小説の中のお話なんですよ。これをどうとられるのも、あなたの心一つです。これは未完の物語。この結末は、よく考えてごらんなさい。  あなたが解決をつけるまで、僕《ぼく》は誰にもこの小説のことをお話ししませんから」  畳《たたみ》の上に、身を投げて、大波のように身もだえして泣いている、女の姿を見やりながら、神津恭介は立ち上った。  彼が警察署へ帰ったのは、それから間もなくのことであった。  捜査《そうさ》主任も、司法主任も、驚《おどろ》いたような顔をして彼を迎《むか》えた。 「神津先生、どこへいらっしておられたんです」 「僕の気まぐれでしてね。ブラブラ街を見物に……ところで、捜査《そうさ》の状況《じようきよう》はどうですか」 「二人とも、あの手この手で責めつけています。もうあの鏡のトリックが分ったからには、めったに逃《にが》しはしませんよ」 「まあ、あんまり物は一方的に考えない方がいいですよ。首のない女のことに思いついたのは、あの二枚の鏡のためでしたが、その鏡がおいてあったのは、単なる偶然《ぐうぜん》かも知れませんよ」 「何ですって」  その時、ガタガタと廊下《ろうか》から一人の警官があらわれた。 「主任殿《どの》! 主任殿! 本間良子が自首して出ました。昨夜、男を殺したのは、自分の犯行だと、下でハッキリ申しました……」  神津恭介の胸の中には、昨夜のあの女の感触《かんしよく》が、そっとよみがえって来たのだった。  ——これでよかったと初めて彼も安心した。吉村|邸《てい》で、それとなく、ワイシャツのカフスボタンをポケットに入れて帰り、あの物置の中に落した、自分の行為《こうい》が、ほろ苦い感傷とともに、正しいことと思われた。     7  今日もまた、ジャラジャラという重い鎖《くさり》の音とともに、T刑務所《けいむしよ》の灰色の門が開いて、何人かの人々を呑《の》みこんだ。  その中には、深く首をうなだれた、一人の女の姿があった。  女に飢《う》えた、青鬼《あおおに》、赤鬼のような人々の眼が、一せいにむさぼるように、その全身に浴びせかけられた。 「今度の女は何者だい」 「人を殺した、本間家の娘《むすめ》だよ」  どこからか、看守の言葉が聞えて来る。かわき切った、うるおいのない事務的な声だった。  サクサクと砂を踏《ふ》んで、未決の獄舎《ごくしや》から、入浴場へと急ぐ、二列の人々が近づいて来る。こうして一室一室と、一週に二度、五分間の、わずかな浴《ゆあ》みを楽しむのだ。  アッ!  その中から、鋭《するど》い男の声がもれた。驚《おどろ》いたように、瞳《ひとみ》を上げた女も、その瞬間《しゆんかん》、顔にかすかな、淋《さび》しい笑いを浮《うか》べたのだ。  凍りついたような、すべてをあきらめたような悲しい笑いであった。  灰色の空の下、灰色の門に閉された、灰色の家に起った、一つの小さな事件であった。  湖上に散りぬ     1  霧《きり》のむこうは湖だった。  はげしい風にあおられて、重くどんより湖畔《こはん》に沈《しず》んでいた霧が、ちぎりとられるように、一片ずつ、空の彼方《かなた》に消えて行くと、見る者の心を、深さも知れぬ水底《みなそこ》へ、ひきずりこんで行くような、神秘な碧玉《へきぎよく》の光をたたえた湖面が、チラチラと浮《うか》んでは消え、かくれては見え、やがてその全貌《ぜんぼう》を、眼前にあらわしはじめた。  奥信州《おくしんしゆう》、Y高原の瑠璃湖《るりこ》である。  湖畔には、濃緑《のうりよく》の森の中に、白壁《しらかべ》赤屋根のレークサイド・ホテル、別荘風《べつそうふう》の瀟洒《しようしや》な建物が二、三|軒《げん》、あとは藁《わら》屋根、黒ずんだ、普通《ふつう》の農家《のうか》であった。  クネクネと蛇行《だこう》して、ホテルの前につづいている、白い鋪道《ほどう》に、さっきから、一人の男が立っていた。  薄色《うすいろ》の背広に、白いパナマをかぶって身なりはりゅうとしていたが、その前に立った人は、恐《おそら》く驚《おどろ》かずにはおられぬだろう。  顔は、顔とは呼べなかった。一面|醜《みにく》くひきつった、赤黒い大|火傷《やけど》のあとが、顔全体をおおっている。眼も鼻も耳も、どこについているのか分らぬくらいだった。たとえようのない醜《みにく》さ。泥人形《どろにんぎよう》の顔に、子供が悪戯《いたずら》したような、恐《おそろ》しいまでのぶきみな男であった。  何時間かのあいだ、男はだまって立っていた。誰《だれ》かを待っているのだろうか。それにしても、常識では考えられないほどの忍耐強《にんたいづよ》さだった。  白服、金ボタンのホテルのボーイが、何か小さな包みを持ってホテルの裏口から出て来るのを見て、その男は、コツコツと義足の音を響《ひび》かせて、その少年に近づいた。 「レークサイド・ホテルの人だね」 「はい……」  思わず顔色をかえて、たたずんだボーイの手に、何枚かの百円紙幣《しへい》を握《にぎ》らせると、 「伊勢さんのお嬢《じよう》さん……一枝さんが、ホテルに泊《とま》っているだろう」 「…………」 「この手紙を姉さんの香代子さんの方にわたしてくれないか。返事はいらない」  メデュサの首でも見たように、化石になったかのごとく、呆然《ぼうぜん》としてたたずんでいる、ボーイを尻眼《しりめ》に、その男は湖畔《こはん》の道を、コツコツと、白い霧《きり》の中に呑《の》まれて行った。     2  扉《ドア》には、ノックの音が響《ひび》いている。 「だあれ」  椅子《いす》に深く身を沈《しず》めて、スタイルブックのページをくっていた、二十六、七の近代的な美貌《びぼう》を持った、長身の女が、本を机に投げ出してふりかえった。 「お手紙でございます」 「そう、いまあけますわ」  何か心に、喜びごとでもあるように、軽《かろ》やかな足どりで、女は扉《ドア》のつまみをひねった。 「香代子さまにでございます」 「姉さんは、ちょっと湖の方に行ってるわ。どなたから」  角封筒《かくふうとう》の裏表をかえして、何の名前も書かれていないのを怪《あや》しむように、女はたずねた。 「それが……ホテルの前に、立っておられた男の方からでございます。顔に一面、火傷《やけど》のある、左の足が義足の方」 「分ったわ。姉さんが、帰って来たらわたすから、あずかっとくわ」  ボーイを、つきとばすような勢いで、扉《ドア》を閉じると、 「あの人が、あの人が……このホテルに!」  と、女は大きく身を震《ふる》わせた。  たちまち、しなやかな手で、バリバリと封《ふう》をやぶくと、女は吸いつかれたように、その中の便箋《びんせん》に目を通した。 「やっぱり……ね」  大きな溜息《ためいき》を、一つもらすと、女は瞬時《しゆんじ》に血走った眼を上げて、窓から霧《きり》の湖を、じっと眺《なが》めていたのだった。  コツコツと、またもノックの音がする。ためらうような、力の入らぬ音だった。 「一《かず》ちゃん……一枝ちゃん、あたしよ……香代子よ」 「はい、いまあけます」  そういいながら、自分の黒皮のバッグの中へ、手ばやくさっきの手紙をしまうと、 「姉さん、ずいぶん早かったのね」  といいながら、扉《ドア》をグッと開いて見せた。  外に立っていたのは、一枝よりずっときびしい顔をした、美しい、だがつめたそうな女である。白に緑のチェックのスーツも清々《すがすが》しく、 「何をしていたの、お昼寝《ひるね》」 「まさか。湖の方は今日はどう」 「霧がかかって、あいにく見晴しもきかないわ」 「姉さん、もう東京へ帰りません」  あまりだしぬけだったので、姉も驚《おどろ》いたようだった。 「来たばかりなのに、何をいうの。東京はまだ焼けるような暑さよ。それに、川内さんがせっかくこちらへいらっしゃるのに、悪いじゃない」 「でも……」  寝台《しんだい》の上に、大きく身をくねらせて、 「あの人が、この湖へ来たらしいのよ。あたし、恐《こわ》いわ!」 「あの人って……誰《だれ》が?」 「塚口さん。忠彦さん」 「まあ!」  姉の顔にも、その瞬間《しゆんかん》、ただならぬ恐怖《きようふ》の色が、稲妻《いなずま》のようにかすめて、サッと消えた。 「あなたが会ったの」 「いいえ、ボーイが外で姿を見たというのよ。でも顔には、大|火傷《やけど》のあとがあったといっているし、左の足は義足だそうだし、あたしたちのことをたずねていたそうだし……あの人に間違《まちが》いなくってよ」  香代子は、何か不安げに、奥歯《おくば》をキッと噛《か》みしめながら、部屋《へや》の中《なか》を大股《おおまた》に歩きまわっていたが、 「一枝さん、実はこちらへ来る前に、あたしも東京であの人にあったのよ」 「まあ、それをなぜ、いままであたしに……」 「ずいぶん、あの人も変ったようね。いいえ、顔じゃなくって、気持の方よ。でも分らないこともないわね。いくら男だって、あれだけの傷を負ったら、ひねくれるわ。あなたを責めたい気になるわ」 「よしてちょうだい!」 「一枝さん、あなたももう一度、考えたら。あなたがやさしく、なぐさめてあげたら、きっとあの人も、もう一度、むかしの気持にかえれてよ。戦争に行く前の気持をとりもどすわ」 「やめて!」  一枝は、両手で耳をふさいで、血を吐《は》くような声で叫《さけ》んだ。 「そんな旧道徳は、まっぴらごめん。そんなのは、明治以前の考え方よ。あの人がああなったのも、わたしが川内さんを好きになったのも、何もあたしの罪じゃない……運命よ。みんな、運命の力なのよ。そんなことをいうのなら、姉さんが、あの男と結婚《けつこん》なさればいいわ……姉さんだっておいやでしょう」 「でもあの人は、思いつめたら、何をするか分らなくってよ」 「殺すというの……顔に硫酸《りゆうさん》でも、ぶっかけるの。そんなことが出来るなら、いままでとっくにしているわ」  一枝は、顔を歪《ゆが》めて、無理に笑いを浮《うか》べようとした。  眉《まゆ》をひそめて、その姿を見守る姉の後《うしろ》の窓に、霧《きり》の上った湖に、斜陽《しやよう》が赤く、最後の光を投げていた。     3  その翌日は、雲一つなく澄んだ空から、氷の中を通したように、熱を失った日の光が、湖水の上に降りそそいでいた。  午後二時すぎ、黒皮のボストンを一つ、手に下げて、ホテルへ入って来た、青年がある。浅黒い、日に焼けた、ガッチリとした体格だった。 「お部屋《へや》はある」 「お一人さまで。どうぞこちらへ」  と、ボーイがロビイへ案内するのを、後から、 「伊勢さんのお嬢《じよう》さんが泊《とま》っているだろう。川内が来たといってくれない」 「はァ、香代子さまの方は、ただいまご散歩でございますし、一枝さまの方は、ボートで湖に出られました」 「湖に……ね」  青年は、ボストンの中から、大型の双眼鏡をとり出すと、眼にあてて湖心の方に焦点《しようてん》をあわせはじめた。 「なるほど、あれだね……」  その口には、愉快《ゆかい》そうな笑いが浮《うか》んでいた。 「お部屋《へや》にご案内いたしましょう」  ボストンをさげて、ボーイが歩き出そうとした時、とたんに青年の顔から、笑いの色が消えた。 「どうしたんだ……そんなはずは……」  青年は窓から、グッと身を乗り出すと、真青に変った顔に、ふたたび双眼鏡をあてて、 「君、ちょっと、あれを見たまえ。あれは何だい!」 「何でございましょうか」 「僕の気のせいだろうか。いや、そんなはずはない……そっちだ。湖の中心だ。この双眼鏡をのぞいて見たまえ。あの人のボートが見えるだろう。漕《こ》いじゃいないね。波のまにまにただよっている……船の中に、人が倒《たお》れているだろう。あの胸に、ベットリ赤くついているのは何だろうね……」  ボーイも、双眼鏡を手から離《はな》すと、のけぞらんばかりに驚《おどろ》いた。 「すぐにボートを出しましょう。ごいっしょにおいでになりますか」 「もちろんだよ。ボートはどっち」 「この下に……」  ロビーから、ベランダに飛び出すと、階段を矢のようにかけおりた二人は、纜《ともづな》を解く手ももどかしく、ボートに飛びこんで、オールを握《にぎ》った。  サッサッと、深緑の湖水に白い飛沫《ひまつ》をあげて、ボートは水すましのように、湖面を滑《すべ》った。 「君、もっと急いで……もっとスピードは出ないかね!」  叱咤《しつた》するように、艫《とも》から叫《さけ》ぶ、青年の声を真向から浴びながら、ボーイは必死にオールを漕《こ》いだ。  ホテルから四、五百メートル、一番近い岸まで五十メートルぐらいの地点である。 「早く! 早く!」  人影《ひとかげ》もなく、波間の木の葉のようにただようボート、その近くには、別の一隻《いつせき》が側まで近づいていたのである。 「死んでいますよ」  そのボートから、若い男が呼びかけた。 「死んでいる……あの人が!」  思わず、立ち上ろうとして、ボートは大きく動揺《どうよう》したが、ふたたび青年は、顔をおおって、腰を落した。  主《ぬし》を失い、オールを流したボートの底に、一枝がのけぞっていたのである。  純白のスーツの左の胸のあたりに、生々しく真紅の血潮がにじんでいた。大輪の紅薔薇《べにばら》に似た血のあとは、まだ乾《かわ》ききれずに、後から後からひろがって、スーツの上に、何本も、真紅の糸をひくのだった。  グッタリと後《うしろ》に投げ出された顔は、血の気も何もなく青ざめて、カッと両眼を見ひらいたまま、息は全くたえている。 「どうしたんです! どうしたんです!」  川内青年は、大きな声で叫《さけ》んでいた。 「どうしたって、私にはわけが分りませんよ。そちらで釣《つり》をしていたら、ここまでボートを漕《こ》いで来たこの人が、アッと叫《さけ》んでバッタリ倒《たお》れてしまったんです。近くには、人影《ひとかげ》一人、ボート一隻見えませんでした。ちょうど私が見ていましたから、何の間違《まちが》いもありませんよ。突然《とつぜん》胸から血を吹《ふ》き出して、そのまま、倒《たお》れてしまったんです……」     4  意外な事実が判明した。  左の肩《かた》から、心臓を貫《つらぬ》いた、一|撃《げき》が、致命傷《ちめいしよう》であることが分ったが、その凶器《きようき》が何であるかということが、全然判明しなかったのである。  遠距離《えんきより》からの銃撃《じゆうげき》ならば、死体に弾丸《たま》が残っているはずだが、それもなく、近距離に近づいた船から、誰《だれ》かが短刀で、一撃したとも思えるが、一枝が殺される瞬間《しゆんかん》に、そちらを見ていた、二人の人間の証言《しようげん》によって、それも不可能なことが分った。  捜査《そうさ》にかけつけた、倉内警部を初めとする国警のメンバーも、これには首をひねったのだ。  だが、姉の香代子の証言が、この怪事件《かいじけん》に一筋の光明を与《あた》えた。 「わたくし、一枝さんが殺されました時には、サルバーさんとごいっしょに湖の岸を歩いておりました。お話もろくろくせずに、一人であれやこれやと、いろいろなことを考えておりましたが、一番心配だったのは、塚口忠彦さんのことです。血を分けた、妹のことをこう申しては何ですが、一枝さんには、わたくしでもこれはと思うことが往々ありました。  塚口さんとは、許嫁《いいなずけ》の仲だったんですが、戦争に行ってしまうと、すぐほかに、恋人《こいびと》を作って、遊び歩いている始末です。帰って来ても、ああして大怪我《おおけが》をなすったというので、一度もお見舞《みまい》にも上りませんでした。  川内さんにしたって、お式の日どりまできめましたが、今度だって、どうなることかと一人で心配していたんです」  二人の父の伊勢庄六《いせしようろく》という男は、一介《いつかい》の叩《たた》き大工《だいく》からのし上げて、戦時中から終戦にかけて、莫大《ばくだい》な財産をきずき上げた、男であった。よくいえば、風雲児《ふううんじ》ともいえるのだが、そのかげには、恐《おそ》らく明るみには出《だ》せないような、法網《ほうもう》をくぐる所業のあったことも、まず想像に難くはない。ことに、女色《じよしよく》の道にかけては、後指《うしろゆび》をさされる行状が多々あったのも、後で思いあわせて、なるほどと、うなずかれることなのだった。  一方で、被害者《ひがいしや》の所持品をしらべていた、一人の刑事《けいじ》は、ハンドバッグの中から、思わぬ手紙を発見した。   「香代子さん。   思いがけなく、この湖畔《こはん》で、私はあなた方お二人の姿を見つけてしまいました。   あまりにも変りはてた、この自分の姿が恥《はずか》しく、声をかける元気も起りませんでしたが、といって、心の中にわき上る、この激情《げきじよう》もおさえ切れず、こうして手紙を書いたのです。こうしたあわれな姿になった私に以前のような愛情を、一枝さんから期待するのは、恐《おそ》らく間違《まちが》ってもおりましょう。   私は、男らしく一切をあきらめるつもりです。きびしい運命の鞭《むち》にもたえる覚悟《かくご》なのです。   しかし最後に一度だけ、私はあの人にあっておきたい。愛情のささやきは期待しません。ただ前途《ぜんと》に対するはげましの言葉が欲しいだけなのです。   あなたはたえず、私たちの恋愛《れんあい》に、心から同情を持っておられました。いまでも、このあわれな生ける屍《しかばね》に、一滴《いつてき》の涙《なみだ》は惜《お》しまれないことでしょう。   一度だけでも結構です。どうか私と一枝さんと、二人だけで会える機会を作ってはいただけませんか。もしこの最後の望みが、かなえられなかったら、その時は、私にも最後の決心があるのです。   私はいま、ホテルから湖水に沿って十丁ぐらいの貸別荘《かしべつそう》に、弟と二人で滞在《たいざい》しております。何卒《どうぞ》、よしなにお取り計らい願い上げます。  塚 口 忠 彦拝」 「最後の決心——というんだね」  この手紙を読んだ、倉内警部は何か思いあたったように、ピクリと太い眉《まゆ》をあげた。 「姉の方は、この手紙を読んでいるのかね」 「それが……ボーイは、妹の方に渡《わた》したようですし、ああして妹のバッグの中に入っていたのですから、姉が知らないといっているのも、満更《まんざら》嘘《うそ》じゃないでしょう」 「それもそうだね。それじゃあ一つ、その貸別荘の方をしらべてくれたまえ」  警部は、眼を細くして、安楽椅子《あんらくいす》にドカリと腰《こし》をおろした。  一時間ほどした後で、刑事《けいじ》が報告に帰って来た。 「警部どの、別荘をしらべましたが、奴《やつ》はいません。弟の不良青年みたいな、勝彦という二十五、六の男が一人おったきりです。兄の方は呼吸器などを患《わずら》って、いよいよ前途《ぜんと》に希望をなくしていたようですね。二階の部屋《へや》の床《ゆか》の上に、大分血のあとがありましたので、どうしたのかとたずねましたら、昨夜|大喀血《だいかつけつ》をしたあとだ、と弟がいうんです。  あわてて、今朝のバスの始発でN町まで、医者を迎《むか》えに行ったそうですが、帰って来た時には、絶対安静で寝ているはずの病人が、どこへ行ってしまったのか、影《かげ》も形もなかったというんですよ」 「なるほど、不治《ふじ》の病にとりつかれた病人が、無理心中をするというのは、よくある例だし、女を殺して、自分も自殺したんじゃないか」 「しかし、警部殿、そんな病人が、どうして湖の上にいた、女を殺すことが出来たんですか」 「それをこれから調べるのさ」  警部は、不機嫌《ふきげん》そうに、口をつぐんだ。  警官隊や、青年団を動員して、附近《ふきん》の山狩《やまがり》、湖水の捜索《そうさく》が行われた。だが手がかりは何もなかった。塚口忠彦は、忽然《こつぜん》として、この湖畔《こはん》から影《かげ》をかくしてしまったのである。     5  しかし、その夜のことであった。  東京から、かけつけて来る両親を待ち、一枝の火葬《かそう》を終るまでは、香代子も川内弘之もこのホテルから、離《はな》れるわけには行かなかった。二人は、ホテルの一室で、夜中すぎまでだまって坐《すわ》りつづけていた。  雲間をもれる月影《つきかげ》が、ただいたずらに青白く、草間には、はやくも虫の音がすだき、淋《さび》しい通夜《つや》の一夜であった。 「香代子さん。もうお休みになったらいかがです。眠《ねむ》れなかったら、催眠剤《さいみんざい》でもあげましょうか。あんまり疲《つか》れると、明日《あす》は忙《いそが》しいんですし、体がとてもつづきませんよ」 「いいんです。今晩ぐらい、こうしてお通夜《つや》をしてやらないと、妹だって浮《うか》ばれません」 「そうですね」  二人の声は、プツリととぎれた。 「川内さん」  香代子は、何か決心したように顔をあげた。 「何ですか」 「こう申しあげては、何ですけれど、妹はほんとうに、あなたを愛していたかどうか、分りませんでしたのよ」 「香代子さん、あなたは何をいうんです」 「こんなこと、こんな晩に、あなたに申し上げてはいけないくらい、わたくしにもよく、分っています。でも、わたくしも何となく、これから長く生きられないような気もします。妹のあとを追って、死んで行くように思われてなりませんの」 「いけませんね。そんなに弱気を起しちゃ」 「川内さん、あなたは、わたくしが死んだら泣いて下さいます。お花の一つも、お墓《はか》にたむけて下さいます」  香代子の眼には、熱っぽい、いうにいわれぬ光がこもっていたのである。  川内弘之は、何か恐《おそろ》しいものでも見たように、愕然《がくぜん》として、眼をそらした。 「香代子さん。あなたがいまおっしゃった、言葉を前に聞いていたら、僕の運命も、大分変っていたでしょうね」  二人の心は熱していた。お互《たが》いに、相手の心臓の鼓動《こどう》を聞くような思いであった。  言葉もなく、動作もなく、草間の虫さえ、鳴く音をとめた。時間が進行を止めたかと思われる一瞬《いつしゆん》であった。 「キャーッ」  突然《とつぜん》、この世のものとも思えぬ悲鳴を上げたかと思うと、香代子は窓を指さしながら、寝台《しんだい》の上によろめき崩《くず》れた。 「どうしたんです」  さっと背後をふりかえった、川内弘之は、思わず震《ふる》え上ったのだ。  窓縁《まどぶち》に、男の顔が浮《うか》んでいる! 赤紫《あかむらさき》の火傷《やけど》に崩《くず》れた、人間の顔とも見えぬ、恐《おそろ》しい顔が、何の表情も浮べずに、不気味に中をのぞいている! 「こいつ!」  わけの分らぬ、叫《さけ》びを上げたかと思うと、彼は一足飛びに、窓縁に飛びついた。だがその時早く、男の影《かげ》は、パッと茂《しげ》みのかげに消えた。  必死に窓を乗り越えて、彼は茂みをかきわけた。  男の影はどこにもない。ただ水に濡《ぬ》れた、二つの足跡《あしあと》が、窓のそばまで往復していた。  月の光に、その跡をすかして見た、彼は愕然《がくぜん》としたのである。その片足は、まるで木履《ぼくり》のあとのよう。人間の足と思えぬ足跡だった。彼は静かに、歩き出した。その足跡のあとをたどって……。  その足跡は、湖水の中から始まっていた。そして、ふたたび湖水の中に帰っていた。     6  東京から、伊勢庄六夫妻が、かけつけて来たのは、その翌日のことだった。  鬼《おに》といわれた父親も、それ者《しや》上りの母親も、目に入れたいほどかわいがり、わがままいっぱいに育てあげた、娘《むすめ》の死体を前にしては、まるで精神異常者同然だった。  香代子も、昨夜のことがあってから、高熱に襲《おそ》われ、たえずわけの分らぬ譫言《うわごと》を口走っていた。医者が呼ばれて、解熱剤《げねつざい》と、鎮静剤《ちんせいざい》が与《あた》えられ、夕方近くから、熱もひいたが、憔悴《しようすい》の色も濃《こ》く、一晩で十も年をとってしまったように見えた。  そしてその晩、不思議なことが起ったのである。 「おい、お前は、この鞄《かばん》に入れておいた、十万円を知らないか」  夕食の席に立って帰った庄六が、あわてて妻にたずねたのである。 「ほんとうにないの、どうせあなたのことだから、どこかほかの所に、お忘れになったんじゃない」 「いや、いくら俺《おれ》が健忘症《けんぼうしよう》だといったところで、今度ばかりは間違《まちが》いないよ。さっき食堂へ行くまでは、ちゃんと鞄の中にあったんだからね」 「困った人ね」  夫人《ふじん》もあわてて、部屋《へや》を探しにかかったが、どんなに探してもむだであった。部屋にも鞄にも、鍵《かぎ》をかけておかなかったのが、油断といえば油断といえるにもせよ、わずか二十分ぐらいの間に、この十万円は、煙《けむり》のように部屋から消えてしまったのである。  二人は、明日東京から金を送らせようかとか、警察に知らせようか、知らせまいかなどと、首をあつめて相談しながら、遅《おそ》く床《とこ》についたが、さて翌朝になって見ると、その十万円は部屋の中、扉《ドア》の前の床《ゆか》の上に落ちていたのであった。  手もつかず、帯封《おびふう》も切らず、一枚の千円|紙幣《さつ》もなくなってはいない。  二人は、思わず顔を見あわせた。最初からそんな所に落ちていたなら気のつかないはずは絶対にあり得ない。とすれば、誰《だれ》かが一度、これを盗《ぬす》んで、またそれを部屋に持ちこんだに違いない。扉《ドア》の方の通風窓が開いていたから、そこから投げこんだものだろうが、犯人は何のため、盗《ぬす》んだ金を返したのか。  わけの分らぬ疑問であった。ただ、二人を慄然《りつぜん》とさせたのは、その紙幣《しへい》の束《たば》がビッショリと、水に濡《ぬ》れた形跡《けいせき》があることだった。  その夜の恐《おそろ》しい出来事は、決してそれだけではなかった。  朝早く、塚口忠彦が帰っておりはせぬかという、はかない希望をいだきながら、その貸別荘《かしべつそう》をおとずれた警官は、ぶきみな予感を感じながら鍵《かぎ》のかかっていない、表の戸をおし開けた。  弟の勝彦が、部屋《へや》に倒《たお》れていたのである。その左の胸には、鋭《するど》い細身の長い刃《やいば》で、貫《つらぬ》かれたような、傷が開き、白《しろ》いパジャマは一面に、真赤な血潮に染まっていた。  もみ上げを長く剃《そ》り残した、リーゼントの髪《かみ》も乱れ、にやけたようなノッペリとした顔には、あわてふためいたような、恐怖《きようふ》の色が残っている。  そして今度も、片足義足の足跡《あしあと》が、湖岸から裏口へ、水に濡《ぬ》れて続いていたのだった。  いや、家から出て行った足跡の方には、うっすらと、血さえ残っていたのである。  倉内警部をはじめとして、この犯行現場にかけつけた、係官たちは残らず、ゾッと身をふるわせながら、たがいに顔を見あわせた。  妖怪変化《ようかいへんげ》の業《わざ》なのか。塚口忠彦が、湖底にひそんでいるのだろうか。  彼は泳ぎが出来なかった。いや、五体の完全に揃《そろ》った人間でも、この湖水で泳ぐと、往々に事故を起した。そしてその死体が一度水底にまきこまれたが最後、永久に水面に浮《うか》び上って来ることはなかったのだ。  平和に澄《す》み切った湖にも、その底には、あるいは物凄《ものすご》い渦《うず》が渦まき、目にもとまらぬ逃《に》げ水《みず》となって、はるかの地底に通じているのか。  家中、くまなく捜索《そうさく》の手《て》を進《すす》めても、手がかりは、何一つとして得られなかった。  塚口家は、この地方では、むかしから有名な旧家であり、相当の財産も持ってはいたが、いまはむかしの面影《おもかげ》もなく落ちぶれて、この二人の兄弟を残すだけ、弟の方は、軟派《なんぱ》の不良として、その悪名をうたわれていたともいうが、いざとなったら、切ったはったの刃傷《にんじよう》も、あえて辞せなかった、といわれている。その弟が、反撃《はんげき》したあともなく、こうして正面から、一撃《いちげき》で倒《たお》されたのはどういうわけか。  考えても、考えても、とけない疑問の数々《かずかず》だった。  ふたたび山狩《やまがり》が行われた。湖水の捜索《そうさく》がくりかえされた。しかし得るところは、何もなかった。  神秘な謎《なぞ》をたたえた、この湖は、その日は薄《うす》い靄《もや》の中に、波一つなく墨絵《すみえ》のように、静まり横たわっていたのである。     7  その三日後のことだった。  迷宮入りとなったまま、捜査《そうさ》当局の主力がこの湖の畔《ほと》りを去《さ》って、颱風《たいふう》一過の感があるレークサイド・ホテルに、一人の眉目秀麗《びもくしゆうれい》な青年|紳士《しんし》がおとずれて来た。  薄色《うすいろ》の背広を、隙一《すきひと》つなく身に着こなしたまだうら若い、貴公子の風格を持つ青年だった。広く高い額《ひたい》には、無限の智能《ちのう》を宿し、黒く澄《す》み切った瞳《ひとみ》には、人生の深淵《しんえん》を、かいま見るような哲人《てつじん》の閃《ひらめ》きがあった。  名探偵《めいたんてい》とうたわれた、青年法医学者、神津恭介だったのである。  その名前は、風のように、ホテルの滞在客《たいざいきやく》のあいだに伝わって行った。快刀乱麻《かいとうらんま》を断つといわれる、超人的な推理の力が、いつこの事件に発揮されるかと、固唾《かたず》をのんで心待ちにする人も少くなかったが、彼は一指もあげようとはせずに、ただ黙々《もくもく》と物憂《ものう》げに、湖畔《こはん》を逍遥《しようよう》するだけだった。  たまりかねてしまった、川内弘之は、意を決して、恭介の部屋《へや》を訪ねて行った。そして事の一切を打ちあけて、彼の意見をたたいたのである。  若くして、すでに老成の感がある、恭介の顔には、かぎりない苦渋《くじゆう》の色が浮《うか》んでいた。 「川内さん。僕はこのホテルへ、やって来なければよかった、と思いますね」 「どうしてなんです」 「知るということは、一面においては、苦痛を生むのですね。何も知らずにいる方が、人間にとっては、かえって幸福かも知れませんよ」 「でも知るというのは、人間の特権でしょう」 「人類は、その禁断の木の実を、口にしたばかりに、エデンの園を追われたのですからね」  何となく、重苦しい沈黙《ちんもく》がつづいた。 「川内さん。もうこの事件は、このままでそっとしておかれたらいかがです。塚口忠彦はもう永久に、あなた方を、悩《なや》ますことはありますまいよ」 「でも、私はそれが我慢《がまん》が出来ないんです。この事件が起ってからは香代子さんは、まるで精神異常者同然です。譫言《うわごと》ばかりいいつづけて、美しかったあの人が、まるで枯木《かれき》のように憔悴《しようすい》して行くのです。あの晩、あの恐《おそろ》しい顔を見てからというものは、幽霊《ゆうれい》にでも憑《つ》かれたように、一日一日、生きる力をなくして行きます。それを黙《だま》って見ていることは、もう私にはたえられません」  神津恭介は、大きな溜息《ためいき》をもらしていた。 「あなたは、香代子さんを愛しているんでしょう」 「その通りです。私はただ、あの人の心がつかめませんでした。私に好意を持ってくれているのか、いないのか、それがはっきり、分りませんでした。いや、私は嫌《きら》われているとばかり信じていたのです。私はあの人の面影《おもかげ》を求めるばかりに、殺された一枝さんと婚約《こんやく》を結んだのでした」 「女心というものですね」 「その一枝さんが、命を失った今となっては、私としては、もうあの人を守るより、ほかに仕方はありません。命にかえても、あの人を包む呪《のろ》いを破らなければ……あの恐《おそろ》しい男を捕《とら》えてしまわなければ……」 「川内さん。影《かげ》を追うのは愚《おろ》かですよ。香代子さんをつれて、一日も早く東京へお帰りなさい。そして、塚口忠彦のことなど、すぐにも忘れておしまいなさい」 「出来ません。それがたやすく出来るなら、私たちは苦しみません。あの人は毎晩毎夜のように、塚口忠彦という、名前を口走っているのです」  恭介の白皙《はくせき》の顔は、いよいよ暗さを加えた。 「あなたはどんな事があっても、香代子さんを、愛しつづける自信がおありですか」 「ありますとも。たとえ地獄《じごく》の底まででも、いっしょに行って見せますとも」  恭介は、大きく二、三度、うなずいていた。 「それならば、僕の仮説を申し上げてもいいのですが、これはあくまで想像ですよ。わずかばかりの材料の上に組みたてた、創作なのかも知れません。僕の頭に描《えが》き出された空想の、砂上の楼閣《ろうかく》かも知れません。だからあくまで、このことは、あなた一人の胸の中に、しまっておいて欲しいのです」  恭介の眼は、前にする人を誰《だれ》しも、射すくめるような光を放っていた。 「香代子さんは、一枝さんが殺された時に、どこにいました」 「あとで分ったことなんですが、サルバーという外国の女の人と、ずっといっしょに、湖畔《こはん》を散歩していたそうです」 「それから、いま一つ、おたずねしますが、塚口君の借りていた貸別荘《かしべつそう》には、備附《そなえつけ》のボートがありましたか」 「たしか、一隻《いつせき》あったようです」 「そのボートの中に、血痕《けつこん》が残っていたか、いなかったか、あなたはお気がつきませんでしたか」 「その血痕があったなら……」 「塚口忠彦の亡骸《なきがら》は、この湖の底深く、眠《ねむ》っているに違《ちが》いありません」 「神津さん。彼は死んでいるんですか。いつ死んだのです。自殺ですか他殺ですか」 「他殺ですとも、行方不明になった、と思われた夜の中《うち》に、あの別荘で殺されたんです」 「何を証拠《しようこ》に、あなたはそんな……」 「彼が結核|患者《かんじや》だったという、はっきりした証拠《しようこ》がありますか。口から吐《は》いた血と、傷口から流れ出た血液と、どこに違いがありますか」  もはや、答える力もなく、川内弘之は、首を落してうなだれた。 「彼が殺されていないとしたら、香代子さんも、あなたと二人で、窓からあの顔を見たときに、あれほど脅《おび》えなかったでしょうね」 「それじゃあ、あの男は誰《だれ》だったんです。どうして、湖の中から窓の下まで往復した、足跡《あしあと》がついていたんです」 「それが、弟の仕業ですとも。塚口勝彦が、兄を装《よそお》っていたんですよ。あなた方も、その顔はチラリとのぞいただけなんでしょう。人間|離《ばな》れがすればするほど、仮面はつくりやすいでしょうね。ボール箱《ばこ》と、蝋《ろう》と、絵具がありさえすれば、すぐにでも、そんな仮面はつくれますとも」 「どうしてそんな……」 「あなたは、結核のしかも義足の男が、厳重な捜査《そうさ》の眼をのがれて、二日も三日も、山中にかくれ、気の狂《くる》ったような凶行《きようこう》を、次々にくりかえすことが出来ると考えますか。あり得《う》べからざることですね」 「それじゃあ、何のために、そうしたことをする必要があったんです。自分の犯罪をごまかして、兄がまだ、この世に生きているのだと、思わせるためだったんですか」 「それも一つはありましょうね。だが最大の目的は、それによって、香代子さんを怯《おび》えさせようとしたんです」 「どうしてです。どうしてなんです」 「十万円を盗《ぬす》み出して、またもとに返しておけるのは、このホテルの中にいた、人間のほかにはないはずですよ」  川内弘之の眼の色は、もはや常人とは思えなかった。憑《つ》かれたように彼は叫《さけ》んだ。 「神津さん。僕《ぼく》ははっきり分りません。順序を立てて初めから、話して下さい」 「香代子さんは、一枝さんの鞄《かばん》の中《なか》から、自分にあてた手紙を発見したのです。そして一枝さんが、寝《ね》しずまってから、塚口忠彦の別荘《べつそう》を一人で、訪ねて行ったのです。  彼は、身も世もあらぬ思いを、香代子さんの前にかきくどきました。そして、思いをかなえてくれなければ、自殺するぞと、拳銃《けんじゆう》を出して、脅迫《きようはく》したのです。  ハッと思った香代子さんは、その手にとびついて、拳銃を奪《うば》いとろうと争う間に、はずみがかかって、引金を持つ指に力が入りました。  轟然《ごうぜん》、鋭《するど》い銃声《じゆうせい》とともに、男は倒《たお》れました。呆然《ぼうぜん》と、われを忘れて、死体《したい》の前にたたずんでいる、香代子さんの前には、小悪魔《しようあくま》——この弟があらわれました。そして、殺人の現場を目撃《もくげき》したと脅迫《きようはく》したのです。  何かの取引が成立しました。二人は死体をボートにのせると、湖の上に漕《こ》ぎ出し、重石をつけて、彼の骸《なきがら》を湖底深くに沈《しず》めたのです。  この弟は、思わぬ好機に小おどりしました。この取引というのは、恐《おそ》らく香代子さんと結婚《けつこん》して、伊勢家の財産を握《にぎ》ろうとする、そんな陰謀《いんぼう》だったでしょう。彼はいよいよ、その狙《ねら》いを効果的にするために、湖の上に出ていた一枝さんを、岸から狙撃《そげき》したのです」 「神津さん!」 「まあ、お終いまでお聞きなさい……。  あらぬ亡霊《ぼうれい》の影《かげ》に怯《おび》えた香代子さんは、遂《つい》に最後の決心を固めました。どんな手段を講じても、この男の口をふさごうと、それでお父さんの手許《てもと》から盗《ぬす》み出した十万円をたずさえると、またも別荘《べつそう》を訪れたのです」 「…………」 「十万円のはした金など、彼は相手にしなかったでしょう。今となっては、この悪魔《あくま》を倒《たお》す以外にはない。美しい手を犠牲《ぎせい》の血潮《ちしお》に染めながら、あの人は夢遊病者《むゆうびようしや》のように行動し、ホテルへ帰って来たのです……  義足のあとを残すなど、何の苦労もなかったでしょう。当局は、最後まで、死んだ男の亡霊《ぼうれい》に迷わされつづけてしまったのです」  川内弘之の姿は、見るからにいたましかった。ただ残された、最後の力をふり絞《しぼ》って、彼は血を吐《は》くようにたずねた。 「それでは、一枝さんの体に、弾丸《たま》が残っていなかったのは、どうしたんです……」 「それは恐《おそ》らく、弾丸は、魔弾《まだん》といわれる可溶弾《かようだん》、ドイツに産する岩塩の結晶《けつしよう》を、弾丸の形に、加工したものを使ったんでしょうね。体内に食いこんだ弾丸は、血液に溶解します。少し時間がたちさえすれば、何の痕跡《こんせき》も、後には残さないのです。これ以外には、僕《ぼく》にはこの事件の解決は考えられません」 「神津さん! 僕はどうすればいいんです」  この世の人の声とも思えぬ声であった。 「だから、最初から申したでしょう。これはあくまで、僕の仮説に過ぎないとね。仮説だけでは、どんな裁判官にしても、有罪の判決は下せません。この仮説が正しいか、誤りか、知っているのは、地上には恐《おそ》らく一人しかないでしょう。僕はあくまで、この事件については、沈黙《ちんもく》を守ります。あなたの愛が、お二人に幸福な結果を生むようならば、これはそれほどさわぎ立てずに、このまま不問に附《ふ》した方が、ずっといい結果になるんじゃありませんか」  川内弘之は、力なくよろよろと立ち上ると、物もいわずに、一礼して恭介の部屋《へや》を去って行った。  その夜、恭介は眠《ねむ》れなかった。彼はいままで、犯罪の真相を見やぶって、これほど重い気持になったのは、一度もおぼえがなかったのだ。  輾転反側して、一夜を明かした恭介は、朝霧《あさぎり》のまだ明けやらぬ、湖畔《こはん》に出た。ホテルの者が五、六|人《にん》、ボート置場に集って、何かささやきかわしている。 「どうしたんです」近づいて、恭介は言葉をかけた。 「ボートが一|隻《せき》、見つかりません。オールを入れてある小屋の錠《じよう》も、こじ開けられています」  恭介の心には何か閃《ひらめ》くものがあった。階段《かいだん》をおどり上って、ヴェランダからホテルの中へ飛びこむと、彼は川内弘之の部屋《へや》の扉《ドア》をたたいた。 「川内君、川内君!」  何の答も聞えない。ただ死のような沈黙《ちんもく》が中にみなぎっていた。  色青ざめて、恭介は、ボート置場に引きかえした。 「君、いま一隻、ボートを出《だ》してくれないか。ひょっとしたら、大変なことが起ったかも知れないんだ」  霧《きり》を破って、ボートは湖面を走って行った。早くも秋を感じさせる、爽涼《そうりよう》の朝風に、横顔をなぶられながら、恭介は唇《くちびる》を噛《か》みしめて、一言も口を開かなかった。 「あれ、あそこに!」  オールを握《にぎ》る、ボート小屋の番人が叫《さけ》びを上げた。  湖の中央、深さも知れぬというあたりに、主《ぬし》を失った、一隻のボートが小波《さざなみ》にただよっていた。  人影《ひとかげ》一つ見えない朝の湖に、ボートの側に浮《うか》んでいるのは、ただ一|輪《りん》の紅薔薇《べにばら》だった。  モデル殺人事件  〈問題篇〉     1  その絵の前に、私はふと足をとめた。 「狂女像《きようじよぞう》」と題してある、百号近くの油絵である。  現代的なセンスか知れぬが、判じ物のような、最近の洋画は、私にはよく分らない。  だがこんなクラシックな、渋味《しぶみ》のかかった、伝統的なおちついた絵ならば、私のような素人《しろうと》にもよく理解出来る。 「狂女像」と、私は口の中で、いま一度、その題名をくりかえした。  美しい、若い女の像である。  純白のドレスの胸に、一輪の真紅の薔薇《ばら》をさし、静かに上を見あげた女の顔は、狂《くる》っているのかどうかも分らなかった。  だが、この顔の無表情さはどうしたことか——いや、その眼も、どこを見つめているか分らぬような瞳《ひとみ》ではないか。  整いすぎているという感じ、白痴美《はくちび》というのは、こうした美しさだろうと私は思った。  どうしてこのような像を出品したのかと、考えながら、次の絵の前に歩みを移そうとした時である。  私はうしろに、思わぬ人の気配を感じてはっとふりかえった。  個人の画廊《がろう》ではないのだから、人がうしろに立っていたといっても、別におどろくこともないが、——  閑古鳥《かんこどり》 啼《な》くや 上野の石の廊《ろう》 といわれるほどに、このごろの展覧会の淋《さび》しさといったら大変なものである。まして秋雨のそぼ降《ふ》る朝の中だけに、私がこの部屋《へや》に入って来たときも、お客は一人もいなかったのだった。  スラリとした長身に黒い和服を着こなした、若い上品な女であった。だがチラリと、流し目にその顔を盗《ぬす》み見たとき、私はさすがにハッとした。  これはこの絵のモデルではないか——  もちろん普通《ふつう》の場合だったら、モデルとなった女が展覧会にあらわれて、カンバスの上に表現された自分の姿を、誇《ほこ》らしげに見つめるということは、満更《まんざら》わからぬことでもない。  だがそれが、精神病者であったなら。——  私は飛びのくように、二、三歩横によると、ほかの絵を見つめているふりをしながら、じっと女の態度をうかがっていた。  だが、女は何もいわなかった。動こうとさえしなかった。  何か突拍子《とつぴようし》もない行動をやり出すのではないだろうかと、ハラハラしていた私は、やっと救われたような気がした。  十分あまり過ぎたころ、女は袂《たもと》からとり出したハンケチで眼をおさえた。そしてつかつかと、その絵の前に近づいたかと思うと、サッと身をひるがえして部屋《へや》から出て行った。  私の全身には、とたんにわけの分らぬ戦慄《せんりつ》が走った。  もちろん私は医者として、精神病の患者《かんじや》をあつかった経験もある。松沢病院はじめ、いくつかの精神病院をたずねていったこともある。  女でも狂暴性《きようぼうせい》を帯びている患者もあった。抑制力《よくせいりよく》を失って、男以上に猥褻《わいせつ》に流れる女も少くなかった。火のつくように食ってかかって来る患者も、三分おきにコンクリートの壁《かべ》に、頭をたたきつけている女もいた。  だが、何よりも恐《おそろ》しかったのは、常人とちっとも変らぬ恰好《かつこう》で、青ざめた顔に何の表情も浮《うか》べずに、ただいつまでも坐《すわ》りつづけていた女であった。  その時のような感じが、いま私の全身を貫《つらぬ》いて過ぎたのである。  私はもうそれ以上、悠長《ゆうちよう》に絵などを眺《なが》めている気にはなれなかった。  この悪夢《あくむ》から一刻も早く逃《のが》れようと、二、三度大きく身ぶるいすると、私はそのまま美術館を出て、霧雨《きりさめ》のそぼふる上野公園へ静かに歩みを進めて行った。     2  別に私はその時は、その絵の作者の名前など気にとめてはいなかった。  だが、二、三日後の新聞を見ていて、美術|欄《らん》で、この絵が批評家《ひひようか》の好評を博しており、その作者が長岡雄二という名であることを知ったときには、思わずオヤと思ったのである。  というのは、ほかでもない。  私はその時、ある雑誌に、長編の探偵《たんてい》小説を連載《れんさい》していた。そしてその挿絵《さしえ》を画《か》いてもらっていたのが、この長岡雄二だったのである。  私はそれから、原稿《げんこう》をとりに編集者がやって来たとき、それとなく、彼のことをたずねて見た。 「長岡さんが、今度の展覧会に出品した絵はずいぶん評判がいいようね」 「ハア」  挿絵のことならともかくも、こうした芸術のことになると、縁《えん》もゆかりもなさそうな顔をしているので、私はグッと話題をかえた。 「僕の小説など、相かわらずまずくて仕方がないけれど、この挿絵の水々《みずみず》しさ、色っぽさったらないね。長岡さんってどんな人」 「そうですね。まだお若い方ですよ。ちょうど先生より三つばかり上ですかな」 「まだ独身かい。それとも奥《おく》さんがあるの」 「おひとりですよ。お金持のお坊《ぼつ》ちゃんで、結婚《けつこん》すれば財産の九割まで手に入るというんですが、いまのところは、毎日飲んでばかりいます。お酒は大分お強いですね」 「一度あって見たいんだがね。紹介《しようかい》してくれないかい」 「ええ、何だったらおともしましょう。実は今日も、この原稿《げんこう》をとどけるのは、お宅の方じゃないんですから……銀座まで、いっしょにいらっしゃいませんか」 「行くよ。どこへだっておともするとも。ちょっと待ってくれたまえね」  独身者の気易さもあり、元来|野次馬根性《やじうまこんじよう》の濃厚《のうこう》な私のことだから、言うにや及《およ》ぶとばかり、バタバタと立ち上って仕度をはじめた。  最近までは、私は兄の警視庁捜査一課長、松下英一郎のところに同居していたのだが、最近どうやら独立できるようになったし、いろいろの事情もあるので、別居をして、近所に三間の家を借り、一人で暮《くら》しているのである。 「いったいどこまで行くんだい」 「銀座クラブですよ。御存《ごぞん》じですか」  銀座クラブといえば、たしか元宮家の妃殿下《ひでんか》の経営している、高級社交場である。銀座のどこかに、そういう場所があるということは、私もかねがね噂《うわさ》に聞いていた。 「長岡さんはそこの会員——?」 「ええ、先生も何だったら、お入りになったらいかがです」 「僕はそんな所に出入りする柄《がら》じゃないね」  笑いながら、私たちはちょうど目の前に止ったバスにとびのった。  銀座クラブというのは、新橋駅から間もない銀座七丁目、Sビルの三階になっていた。  これという装飾《そうしよく》もない、清楚《せいそ》な感じのする部屋《へや》に、一隅《いちぐう》はバー、一方にはテーブルやソファーが並《なら》んでいる。  午後三時ごろのことで、お客の姿もほかにはなかったが、窓ぎわに近いテーブルには、三人の青年が、ビール瓶《びん》を二、三本ならべて、何かしら口角泡《こうかくあわ》をとばしていた。 「先生、どうもお待たせしました」 「やあ、ご苦労《くろう》さま。どうだね。君も一杯《いつぱい》やらないかい」 「私は今日は失礼いたします。先生、こちらは、松下研三先生ですが……」  女のような痩面《やせおも》の色白の青年が、おどろいたように立ち上った。 「これは、これは、お見それして失礼をいたしました。私が長岡ですが、どうぞよろしく」 「松下です。いつもお世話になっております。僕《ぼく》のようなつまらない小説でも、挿絵《さしえ》で大分得をしていますよ」 「とんでもない。こちらは僕の友人で、やはり黒竜会《こくりゆうかい》の会員の木下栄君、こちらは僕の弟の敏夫《としお》です」  私たちは、名刺《めいし》を交換《こうかん》して腰《こし》をおろした。 「さあどうぞ」  と、ビール瓶《びん》をななめにかかえて、長岡雄二は私にすすめた。 「いえ、もう僕はあんまりいただけませんので……」 「嘘《うそ》おっしゃい。お書きになっているものを拝見していると、ずいぶんお好きなようじゃありませんか。さあ、どうぞ」  遠慮《えんりよ》するのも何だと思って、私は二|杯《はい》ほどビールのコップを空にした。 「今度の展覧会、拝見しましたよ。大分評判のようですね」  彼は、はにかむように笑った。 「とんでもない。僕のなんかは評判だおれ。今もそれで木下君と、大いに話しあっていたところです。木下君の画《か》いた裸婦《らふ》はごらんになりましたか」  私は、木下栄の浅黒い、ガッチリした男らしい顔をチラリと見たが、悪いような気がして、眼をそらした。 「実は……」と、いいかけたときである。長岡雄二は顔色をかえて椅子《いす》から立ち上った。 「あなたは……あなたは!」  ハッとして、私は背後をふりかえった。  いつの間にか、そこにはあの女が立っていた。あの時と同じく、黒の和服に若鮎《わかあゆ》のようなスラリとした身を包み、能面のように何の表情も見せずに、静かに立っていた。 「卑怯者《ひきようもの》!」  女の口からは、ただ一言、つき刺《さ》すような言葉がとび出した。と思うと、相手の言葉をも待たず、女はクルリと身をひるがえすと、急な階段を降りて行った。     3  私たちは何となく、気まずい感じで、その場を別れた。  せっかく、喉《のど》の奥《おく》まで出かけていた質問ではあったが、私はやっとの思いでかみつぶした。この場の何か意味ありげな雰囲気《ふんいき》を考えると、それはおくびにも出せなかったのである。  だが二日目の夜のこと、長岡敏夫が思いがけなく、一升壜《いつしようびん》をぶらさげて、私の家にたずねて来たところから、私には急にいろいろの事情が分り出したのだった。 「別にこんなものはいただかなくても……」  と柄《がら》にもなく、私が照れると、この青年は日焼けのした、スポーツマンらしい浅黒い顔に、真白な歯を見せて笑った。 「ご遠慮《えんりよ》なさらなくても結構です。実はちょっと、お願いがあって上ったんですが……」 「お願い……」 「神津恭介先生にご紹介願《しようかいねが》いたいんです」  神津恭介といえば、近ごろは改まって紹介の必要もないほど売り出した、私の友人の名探偵《めいたんてい》である。東大医学部を卒業し、法医学を専攻《せんこう》し、かたわら犯罪捜査の方面に手を染めて、一躍《いちやく》名声を轟《とどろ》かしたのだが、ちょうど各方面から推薦《すいせん》されて、アメリカへ一年間の留学に出発したあとであった。  私がそのことを伝えると、彼は残念そうに首をふった。 「そうでしたか。それはちっとも存じませんで……それでは、またあらためて参ります」 「まあまあ、いいじゃありませんか。せっかくですから、このお酒でもいただきましょう。おかずを買って来ますから待ってて下さい」  元来無精者の私のことであるから、家は一軒《いつけん》借りたものの、炊事《すいじ》や掃除《そうじ》や洗濯《せんたく》などはとても手におえかねた。だからそんな一切のことは、近所の下宿屋にたのんで、食事は外出していないかぎり、三度三度そちらへたのむようにしていたが、こんな時には困るのである。  私は机の引出《ひきだし》から、稿料《こうりよう》の残りを探して若干の金を懐中《かいちゆう》に入れ、近くのマーケットで、酒の肴《さかな》を探して帰った。 「とにかく喉《のど》をしめしましょう。ひとりもので、おかんは面倒《めんどう》だからヒヤでいきましょう。ところで神津さんに紹介《しようかい》して欲しいというのは、どんな御用《ごよう》ですか」 「実は……」  と彼はたちまち坐《すわ》り直した。 「このあいだ、銀座クラブでおあいになった妙《みよう》な女がありますね。あの女について、たしかめていただきたいことがあるんです」  私は心の中で、しめたと叫《さけ》んだ。 「神津さんでなくったって、これでも門前の小僧《こぞう》で、簡単なことなら分りますよ。何か事件が起《おこ》ったんですか」 「事件というほどのことではありませんが……あの女は、ほんとうに気が狂《くる》っているんでしょうか」 「ちょっと見ただけでは分りませんが、それがどうしたというんです」 「実は、兄は最近|結婚《けつこん》するんですが、あの女が正気か精神異常者かということで、いろいろの点に大分|影響《えいきよう》があるんです」 「分りませんね。もう少し、くわしくいっていただかないと……」 「それでは申し上げますが、家名にもかかわることですから、このことはどなたにも秘密にしておいていただきたいのですが」 「絶対に、秘密は守りますとも」  彼は安心したように、話しはじめた。 「七年ほど前、戦争末期のことでした。東京にも有名だった、一人のモデルがありました。関川春江という女です。いくら戦争中だといって、芸術家が、軍艦《ぐんかん》や飛行機や戦争の絵ばかり書いておられるもんじゃありません。発表する機会はなくても、売れなくっても、やはり裸体《らたい》にとっくんでいる、若い画家たちはあとをたちませんでした。  この女は、エキゾチックな顔立ちと、ゆたかな胸の肉づきと、日本人には珍《めずら》しい、下半身の均勢のとれた美しさとで、ひっぱりだこの女でした。  それが、このあいだあそこにあらわれた女です。今度の黒竜展《こくりゆうてん》で、兄が評判になった作品『狂女像《きようじよぞう》』のモデルとなった女です」     4  暮《く》れやすい秋の日は、すでに西の空に沈《しず》んで、せまい庭には、どこかで虫さえ鳴き出した。冷酒の酔《よい》に、いくらか上気した頬《ほお》を、秋の夜風になぶらせて、彼は物語をつづけていた。  私が彼の物語から知った、この女の経歴というのは、大体次のようなものである。  長岡雄二は、春江に対して火のような情熱を注いでいた。あるいは全裸《ぜんら》、あるいは着衣と、相次いで何枚かの肖像《しようぞう》を描《か》きあげると、ついにはその肉体の最後の秘密まで、究明し尽《つく》そうと思ったのか、アトリエにその女をつれこんで同棲《どうせい》するようになったのである。  父も母も、この行為《こうい》には眉《まゆ》をひそめた。肺を患《わずら》い、兵隊にも行かない体であったから、一生好きなことをさせておこうと、有名な財産家であった父は、田園調布《でんえんちようふ》に立派なアトリエを立ててやり、それまでは、何一つ干渉《かんしよう》もしなかったが、その時は烈火《れつか》のように激昂《げつこう》して、子とも思わぬ、父とも思うな、とまで口走ったというのだった。  そのような経済的の圧迫《あつぱく》もあり、一つには移り気な芸術家の性癖《せいへき》もあってか、彼は春江を、使い古しの絵筆のように投げすてた。  涙《なみだ》を流してかきくどく、女の必死の哀願《あいがん》にも、耳を貸《か》そうとしなかった。  最後に女は、悪鬼《あつき》のような形相《ぎようそう》で、彼に向って、恐《おそろ》しい呪《のろ》いの言葉を投げかけた。 「いいわ。わたしもこれ以上、あなたには何もいわないわ。でも女には、心臓があるかないかを見ていらっしゃい。いつかわたしの苦しみを、何十倍何百倍にして、あなたに返して上げるから」  それから数年の時が流れた。だがこのあいだ、春江が何をしていたか、知っている者は一人もなかった。  そして終戦後、二年ほどすぎたころ、復員して来た木下栄が、偶然《ぐうぜん》上野公園で、見すぼらしいなりをして、さまよっていた女を発見したのである。  女は狂《くる》っていたのだった。  だがそのやつれた肉体に、青ざめた顔色に、かつての美貌《びぼう》のモデルの面影《おもかげ》を認めた彼は、さっそく女を家につれて帰った。  医者の診察《しんさつ》では、何か強い精神的な打撃《だげき》を受けて、精神に異常を来《きた》してしまったのだろう。いま一度、何かの衝動《しようどう》によって、回復することはあるかも知れないが、はっきりとしたことはいえない、というのであった。  だがそんなことは、この画家にとってはどうでもいいことだった。  彼は早速、戦争中に押しつぶされていた芸術|意慾《いよく》を、カンバスに向って傾《かたむ》けつくした。精神に異常を生じたために、さらに一層、奇妙《きみよう》な美しさを加えて来た、女の姿をあらゆる角度から描《えが》きつくした。  そのことは、仲間の間では、間もなく有名になっていた。そしてどこから聞きつけたのか、長岡雄二は木下栄のところをたずねて、春江を貸してくれないかといったのである。  木下栄は、むかしは長岡雄二の仕打ちに憤慨《ふんがい》して、芸術家の風上にもおけない人間だ、と罵《ののし》ったというが、この時は何を思ったのか、微笑《びしよう》を浮《うか》べていったという。  ——ああ、君の好きなようにしたまえ。君だったら、あの女の僕《ぼく》には分らない秘密まで描《か》いて見せてくれるだろう。 「狂女像《きようじよぞう》」は、このようにして、完成されたのである。  ところが一方、長岡雄二には、ある美人投票で、ミス東京に選ばれた、杉野まゆみという女と結婚《けつこん》の話が起《おこ》っていた。  本人としても、猛烈《もうれつ》なのぼせあがり方で、この女と結婚出来なければ、自分は一生独身で暮《くら》す、というほどの打ちこみ方だったが、近代的な女性であるだけに、相手はきっぱりいったという。  ——どんな男の人であっても、過去に女の人との間違《まちが》いを起した人など、わたくしいやです。これだけは、絶対的な条件ですわ。  いろいろと、政治的な面も手伝って、両親は前の春江との問題を、極力包みかくそうとした。単なる、画家と職業的なモデルの関係として、突《つ》っこまれても、動じないだけの準備をととのえた。  春江自身の口からは、秘密のもれる気づかいはなかった。女が精神異常者であったから。  だが、春江はほんとうに発狂《はつきよう》しているのだろうか。あの日の女の態度を見てから、長岡雄二は、そのような疑いを起したのだ……  話はすごく退屈《たいくつ》だった。筋道を立てて話せば、相当に興味のある話に違《ちが》いなかったが、何しろ相手は、こうした話にはなれていないと見えて、枝道《えだみち》へ入ったり、同じことをくりかえしたり、分りにくいところがずいぶんあった。  それから彼は、あの本を見せてくれとか、何が見たいとか、いろいろのことをいい出したので、何度となく、私は次の間へ行って、本を探して持ちかえって来なければならなかった。  いつか私たちは、一升《いつしよう》の酒《さけ》を半分ぐらいあけていた。  どういう結論になったのか知れないが、私たちはついに、話を忘れて、寝《ね》そべった。その中に、私は激《はげ》しい睡魔《すいま》に襲《おそ》われて、彼が帰ったのかどうかも知らず、昏々《こんこん》と眠《ねむ》りこんでしまった。     5  どれだけ眠《ねむ》っていたのか、私は知らない。目をさました時は、枕《まくら》もとの置時計は十時すぎ、私の体はちゃんと寝床《ねどこ》の中に横たえられて、そばには柱によりかかって、長岡敏夫が真赤な目をして、煙草《たばこ》をふかしていた。 「お早う、気がつきましたか」 「あなたは……」 「いや、先にあなたがひっくりかえってしまったんで、そのままにもして帰られず、押入《おしいれ》から蒲団《ふとん》をしいて寝《ね》かしてあげましたが、もう終電車もないようだし、一人おいておくのも心配だったんで、夜通しここについていました」 「すみません。ちっともおぼえていないんです。めったにこんなことはないんですけれど、昨夜《ゆうべ》は何だか眠《ねむ》くなって、申しわけありませんでした」 「いいんですよ。私はいつも介抱役《かいほうやく》ですから、こんなことになれています。でも夜中には、ずいぶんお苦しそうでしたよ」 「そんなに苦しんだですかしら。いや、正気のとき、何度も便所に立ったでしょう。ああいう時が危いんですよ」  彼は笑って、暇《いとま》を告げようとした。  だが、フラフラする足をふみしめながら、私が彼を玄関《げんかん》まで送り出そうとした時である。門の外に一台の自動車が停《とま》ると、運転手がガラリと門の戸を開いた。 「ああ、敏夫さま。ちょうどよいところでございました。早くおいで下さいまし」 「どうしたんだい」  顔色をかえて、たたずんでいる長岡敏夫の耳に口をよせて、運転手は何か、二言三言ささやいたが、彼はピクリと身をふるわせると、まっ青になってこちらへふり返った。 「松下さん、大変なことが起りました!」 「どうしたんです」 「兄のアトリエで、女の死体が発見されたそうなんです」 「女の死体——?」  私の頭には、何か閃《ひらめ》くものがあった。 「誰《だれ》か殺されたんですか」 「分りません。くわしいことは、現場へ行って見ないと分りません」 「それでお兄さんは、どうしたんです」 「行方が知れないというんです」  私は思わず一歩ふみ出した。 「あなたはおいでになるんでしょう。僕《ぼく》もいっしょに参りましょう。何かしら、つかめるかも知れませんからね」 「それじゃお願いします」  私は、顔も洗わず、すぐさま服に着かえると、何も持たずに、戸じまりだけをすませて車に飛びのった。  全速力で一時間近く走りつづけて、私たちは田園調布《でんえんちようふ》の、長岡雄二のアトリエについた。広い敷地《しきち》の中に建てられた、一軒《いつけん》の瀟洒《しようしや》な洋風建築と、そのそばに大きくそびえる、石造のアトリエ、さすがに贅《ぜい》をこらした建築だった。  例によって、兄は捜査《そうさ》の第一線に立って、二十三|貫《かん》の巨体《きよたい》をノソノソ運んでいた。私が入って行くと、苦虫をかみつぶしたような顔をして、 「研三、お前の早耳には驚《おどろ》いたね。いったい今度は、どこで臭《にお》いをかぎつけて来たんだい」 「別に何でもありませんよ。昨夜十一時ごろまで飲んでいた男が、ここの主人の弟で」 「十一時——それは絶対たしかだな」 「間違《まちが》いなんかありません。それがどうかしたんですか」 「何さ、くせだよ。誰《だれ》でも一応アリバイのダメをおすのが、我々のくせ。殺されたのは昨夜の十時半ごろだからね」 「それで、誰《だれ》が殺されたんですか」 「女——それも死体美人というやつじゃなく、惚々《ほれぼれ》するような美人だよ。モデルだろう。アトリエに大分、その女の肖像《しようぞう》があった」 「兄さん、きっとそれは——精神異常者の女なんですよ」 「精神異常者だって。おどかすない。精神異常者を殺してどうするつもりだ」  目を見はっている兄に、私は昨夜の話を、おぼえているだけ、話して聞かせた。  ウンウンと、鼻の頭に小皺《こじわ》をよせながら聞いていた兄は、大声で腹心の石川|刑事《けいじ》をよんだ。 「石川君。この木下という絵かきを洗ってくれたまえ。モデルの住所もたしかめてくれ。関川春江という女だ」  兄は大きく背のびをして、私の方にふりかえった。 「その弟という人は、ここに来てるんだね。一つあって見たいから、入ってもらってくれないか」  オドオドと入って来た、長岡敏夫に、兄は愛想よく笑いながら、 「私が松下です。弟からお話は一応おうかがいしましたが、あなたは関川春江という女の顔を御存《ごぞん》じですね」 「はア、一応知っておりますが」 「一つ首実検をしてもらえませんか。死体には、あんまりなれていらっしゃらないでしょうが、元気を出してお願いします。オイ、このお方を現場にご案内《あんない》して」  兄の叫《さけ》び声に送られて、私たちは母屋《おもや》を出ると、砂利道を踏《ふ》んで、アトリエの中に入った。  広い、北側だけに窓のある、理想的な構造の、近代風の画室である。  一歩足をふみこんだだけで、油の臭《にお》いに混って、ムンムンと鼻をついて来《く》る、生血の臭いがただよっていた。  ヨロヨロと、前に入って行った、長岡敏夫がよろめくのをおしのけるようにして、私は係官たちの輪をかき分けた。  寄木細工《よせぎざいく》の床《ゆか》の上、モデル台のすぐ下に、一糸まとわぬ全裸《ぜんら》の女が倒《たお》れていた。その緑なす黒髪《くろかみ》はベットリと血にまみれたまま、最後の一撃《いちげき》の物凄《ものすご》さを、まざまざと物語っていたのである。 「後頭部の一撃ですよ。この青銅のヴィナスの頭像を力まかせに投げつけたんですね。頭蓋骨折《ずがいこつせつ》で即死《そくし》ですよ」  顔見知りの係官が、私に説明した。 「暴行《ぼうこう》のあとはありませんね」 「ありません。そういう形跡《けいせき》は残っていません。ただ不思議なことには、女の着物は一枚も、ここには残っていないんです」 「着物がない——女は裸《はだか》で来たんですか」 「それとも、犯人が持って帰ったかですがね。妙《みよう》な話もあるもんですよ」  その瞬間《しゆんかん》、ひざまずいて、女の顔をのぞきこんでいた長岡敏夫が、この世のものとも思われない叫《さけ》びを上げた。 「たしかにあれです! あの女です! 関川春江にちがいありません!」     6  私は本館へ帰って来ると、顔見知りのある刑事《けいじ》から、捜査《そうさ》の概要を聞かせてもらった。  杉野まゆみと、婚約《こんやく》が成立してからは、長岡雄二もひどく素行《そこう》をつつしんで、十何年となく仕えていて、春江とのスキャンダルを知っていたお手伝いには、因果《いんが》をふくめて首にして、新しく通いの家政婦をやとい入れたのである。  その家政婦の証言によると、昨夜は雄二は十時ごろまでアトリエに閉じこもっていたが、十時五分前に、家政婦が帰り仕度をして、玄関《げんかん》を出たとき、一人の女がアトリエに入って行くのを見たという。  アトリエの鍵《かぎ》は一つしかなく、それは雄二がたえず身につけて離《はな》さなかった。中の掃除《そうじ》も、一々その度に開けてもらっていたくらいだし、彼は中に入ったら、その度に中から鍵をかけてしまって、誰《だれ》も中には入れなかった。  ふしぎなことがあるものだ、と思って、しばらく考えこんだが、きっと秘密の愛人でもたずねて来たのだろうと思いこんで、女はそれ以上怪《あや》しみもせずに、帰途《きと》についたというのである。  今朝は八時ごろやって来たが、雄二は寝室《しんしつ》にもおらず、床《とこ》についた形跡《けいせき》も残ってはいなかった。徹夜《てつや》で仕事でもしたのかと思って、アトリエに来て見ると、表戸が開いたままになっている。ふしぎに思《おも》ってふみこんで、死体を発見すると、あわてて警察と本宅の方へ知らせたというのであった。  現場に残っていた血痕《けつこん》は、明かに被害者《ひがいしや》のものと、血液型が一致《いつち》した。そのほかの血痕は残っていなかった。  長岡敏夫も、別室で一応の取りしらべを受けたが、別にこれという手がかりも提供出来なかった。ただ彼は、一つだけおかしなことをいったのである。 「あのアトリエには、兄が秘蔵していた、ルノアールの原画がかかっていたはずです。小さな裸婦《らふ》の像ですが、あれを兄が持ち出すわけなどありません。あの絵はどうなったんでしょう」  ルノアールの真品となれば、これは相当以上の美術品である。早速家政婦に訊問《じんもん》が行われた結果、その絵はたしかに昨日《きのう》の夕方まで、アトリエの壁《かべ》にかかっていたことが分った。だが綿密な捜査《そうさ》の結果も、その絵はどこにも発見されず、ただ額縁《がくぶち》だけが、アトリエの中の物置の中につっこまれていたのが分ったのである。  間もなく、木下栄も石川|刑事《けいじ》といっしょにかけつけて来た。  被害者《ひがいしや》については、関川春江に間違《まちが》いないということだったが、刑事は彼がアトリエに案内されている間に、兄の耳にある情報をささやいた。 「あの男も、少し妙《みよう》なところがありますぜ。昨夜はずっとアパートにはいなかったらしいんです。渋谷《しぶや》から歩いて五分の松濤《しようとう》アパートなんですが、十一時ごろ、一度別な男と二人で帰って来ると、またアタフタと出かけて行って、それからいつ帰って来たのか分らないそうです」 「それまでは、どこにいたというんだね」  煙草《たばこ》の煙《けむり》を輪に吐《は》き出しながら、兄がたずねた。 「九時半ぐらいまでは、渋谷のあるおでん屋で飲んでいたというんですが、それからはブラブラと街を散歩していたというだけです」 「少し臭《くさ》いね。つれて来たまえ」  兄の前によび出された彼は、何か知れないが、ふしぎに落着きがなかった。たえずガタガタ震《ふる》えながら、両眼をしばたたき、視線もきまってはいなかった。 「別にあなたがこの事件に関係があると思ってはおりませんが、職務上一応おたずねしておきます。  昨夜アパートへつれて帰られた男の方はどなたですか」  私の眼にも分るくらいの戦慄《せんりつ》が、彼の背筋をかすめて走った。 「いや、何です。昨夜《ゆうべ》渋谷をブラブラ歩いています中に、中学時代の友人にあいまして、やあしばらくだったねというわけで、アパートへいっしょにつれて帰ったんです」 「その方のお名前は」 「粕谷《かすや》春吾。米に白という字の粕に、タニにハルに数字の五に口です」 「新聞記者が電話をかけてるようですね。あなたはこの紙に見おぼえはありませんか」  といって、兄は紙入のあいだから、一枚のパラフィン紙に包んだ洋紙を彼にわたした。 「これは何です。わたくしたちは、キャンパスは使いますが、紙の方は……」 「大したことはないんです。君、これを持って行きたまえ」  と兄は、そばに立っていた警官に、その紙片をわたした。  木下栄は、とたんに顔色をかえて立ち上った。 「指紋《しもん》——指紋をとったんですね」 「やましいところがなかったら、何も恐《こわ》がることはないよ。君はその友人をアパートへ残して、一人でどこへ出て行ったんだ」  兄の調子も、ガラリと変った。 「せっかくの珍客《ちんきやく》なので、酒を買いに行ったんです」 「なぜ帰りに買って来なかった」 「あいにく、財布《さいふ》が空でして……部屋《へや》まで金をとりに帰りました」 「それで酒はどこまで買いに行った。田園調布《でんえんちようふ》まで買いに来たのか」  またしても、彼の体には、大きく戦慄《せんりつ》が走っていた。 「田園調布だなんて……とんでもない!」 「それじゃあなぜ、終電車がなくなるまで帰って来なかった」  彼は答えることが出来なかった。 「それからいま一つたずねるが、君は関川春江を医者につれて行ったそうだね。その医者は何という医者だね」 「松濤の近くの今野という博士です」 「君のアトリエはどこにある」 「貧乏《びんぼう》で、中々アトリエも買えません。友人の好意で、荻窪《おぎくぼ》の住居の広間を使わせてもらっていました」 「もう一度聞くがね。君の昨夜《ゆうべ》あった友人の名は何という」  その時の彼の顔色は、地獄《じごく》へ追い落される時のような、悲痛な表情に変っていた。 「粕屋武男《かすやたけお》。粕は米へんに白、屋は屋根のヤ……」 「ハッハッハ」  兄は腹をかかえて笑い出した。 「嘘《うそ》はつきたくないもんだね。せっかく出あった友人の名前を間ちがえるなんて、友だちがいのない男だよ。まあ話はあとでゆっくり聞こう」  兄はそばの警官に目くばせした。  うなだれたまま、悄然《しようぜん》とひかれて行く彼といれ違《ちが》いに入って来た、係官がその後姿《うしろすがた》をジロリと見つめて報告した。 「課長どの。あの指紋《しもん》と同じ指紋《しもん》は、ルノアールの絵の入っていた額縁《がくぶち》から検出されました。たしかに間違《まちが》いありません」     7  いくら私が出来損いの凡人《ぼんじん》だったとしても、これだけ兄や神津恭介といっしょに事件の場数を重ねれば、これからの方針ぐらいは見当もつく。鳥なき里の何とやらで、遠くアメリカに去っている恭介に、たまには自分の功名手柄《こうみようてがら》も聞かせてやろうと意気ごんで、私はさっそくその家を飛び出した。  そしてあわててかけつけた先というのは、渋谷の今野博士の病院である。  博士は幸いに、私の一高時代のボート部の先輩《せんぱい》にあたっていたので、そこは強引に無理をたのんだ。 「ねえ、たのみます。おがみます。先生、僕《ぼく》の一生のお願いだから、たまには手柄《てがら》を立てさせて下さいな。一升《いつしよう》さげて来ますから」 「困ったね」  年に似あわず、頭の真中《まんなか》が禿《は》げ上ったこの先輩は、金縁《きんぶち》の近眼鏡の中から、ニヤニヤ笑って私を見つめた。 「いったい何が聞きたいんだい」 「関川春江という女のことですよ。あの女はいったい正気だったんですか。それともコレに来てたんですか」 「初めはたしかに来ていたよ。だがねえ、ああした精神的な衝撃《しようげき》から来る一時の精神障害は、またひょっとした拍子《ひようし》ですっかり治るもんだ。あの女はね。一か月ほど前から回復の見込がつきはじめ、一週間ほど前には、常人同様だったね」 「それじゃあ、誰《だれ》があの女をここへつれて来ていたんです。まさか一人じゃ来ないでしょう」 「最初に来たのは、木下君といっしょだったがね。そのあとで来たのは、別な男といっしょだったよ」 「その男の名前をご存《ぞん》じですか」 「あんまり人を馬鹿《ばか》にするなよ。入院するんじゃあるまいし、附添《つきそい》の名前はカルテに書いちゃいないぜ」 「すみません。でも大変な事件ですから……」  私は博士に事の次第を話して聞かせたが、博士の顔色も、だんだん真剣味《しんけんみ》を帯びて来だした。 「松下君、ちょっと待ってくれたまえね」  そういって立ち上った博士は、間もなく油紙の四角な包みを持って帰って来た。 「僕は友人を裏切りたいとは思わない。だが僕の信念として、不正に与《くみ》することは出来ない。松下君、君は約束《やくそく》してくれるかい」 「何をです」 「この包みの中の品物が、この事件に関係がなかったら、僕が君にこの包みを見せたことを忘れてくれるという約束だ」 「承知しました」 「僕も実際|辛《つら》いんだよ。人を疑うということはいやなことだね。でも……まあよそう。疑わせるという方にも、たしかに落度はあるんだからな」  わけの分らぬ言葉をつぶやきながら、博士の指は、油紙の上をすばやく動いて、厳重な麻紐《あさひも》をほどいて行った。 「ルノアール!」二人の言葉は同時だった。  この筆触《ひつしよく》、この色感、この体臭《たいしゆう》をさえ感じさせる裸婦《らふ》の肌《はだ》、盛《も》り上っているようなこの量感、まさに巨匠《きよしよう》の筆ではないか。 「先生、これがどうしてここにあったんです」 唇《くちびる》をかたく結んで、何か決心したようにしばらく沈黙《ちんもく》していた博士は、一言一言、自分自身に念をおすように口を開いた。 「昨夜《さくや》の十二時すぎだった。突然《とつぜん》木下君が、呼鈴《よびりん》をおして、僕にあいたいといって来た。僕は医者としての義務をはたすつもりで起きて行った。ところが彼は、血相変えて、  ——先生を男と見こんでお願いします。人間一人の命にかかわる大事です。どうかこの品物を、このままあずかってはいただけませんか。中を見ないで、誰《だれ》にもこのことはいわずに。  とくりかえしくりかえし念をおした。  僕も何となく、彼の真剣《しんけん》な態度に打たれたね。不正な品物でなかったら、その通りにしようと約束したんだが、彼は安心したように、汗《あせ》をふきふき、帰って行ったよ」  私たちは、しばらくそのまま、眼を見あわせて立っていた。 「これはどうしたらいいね」 「僕がおあずかりするわけには行きません。しばらく先生が保管しておいて下さい。ただ僕は兄に、このことを一応報告しておきます」 「それがいいだろうね」  博士も重々しくうなずいた。だが、別れぎわに博士はまたしても、重大な一言を投げかけた。 「松下君。君に一言注意しておくがね。この女のことをたずねて来たのは、今日は君が最初じゃなかったよ」  私は手にした靴《くつ》を落してふりかえった。 「警察ですか。新聞社——ですか」 「どちらでもないんだ。女だったよ」 「女——? 何という名の女です」 「何か偽名《ぎめい》は名のっていたがね。そんな名前は初めから、てんで相手にしなかった。顔を見れば、名前は一目で分るんだよ」 「といいますと」 「ほら、二、三か月前に、ミス東京《とうきよう》の選定があったろう。その顔は、新聞や雑誌《ざつし》のグラビヤでおなじみだね。名前はたしか、杉野まゆみといったはず、その女がここへやって来たということは、君も知っていた方がいいかも知れないね」     8  私もその時は、つくづく自分の無力が情けなくなった。  もしこれが、神津恭介だったなら、彼は独特の異状感覚に物をいわせ、錐《きり》のように、事件の核心をえぐりこんでいったろう。  小人、珠を抱いて功なし——である。  でも私としては、一応の手柄《てがら》に違《ちが》いないので、とにかく兄に電話をかけて見た。  兄もさすがに上機嫌《じようきげん》らしかった。 「そうか。ルノアールが見つかったか。出かした、研三、お前《まえ》にしちゃあ出来すぎた」 「あんまり馬鹿《ばか》にしないで下さい」 「すまん、すまん、こちらもあのあとで自動車を飛ばさしたんだが、もういい加減|到着《とうちやく》する時分だろう。ところでこれからどうするね」 「船頭なくして舟進まず。てんで行方もわかりません。神津さんがいなくなっちゃあ、僕《ぼく》は人形も同然ですからね。これから帰って寝ましょうよ」 「物は見切り時が肝心《かんじん》だからな。いい加減なところでやめといた方がボロが出ないぜ。ところで、長岡君があいたがっているんだがどうする」 「彼は釈放なんでしょう」 「今のところは白だからね——どこかで待っているかい」 「じゃあ、白十字で待ってますから、そういって下さい」  熱いコーヒーをすすって待っている中に、彼は例の自家用車で到着《とうちやく》した。 「お待ち遠さま。ずいぶんお待ちになったでしょう」  やっと死体を見た興奮《こうふん》からさめたのか、彼はいたって元気がよかった。 「いやほんの十五分ぐらいですか」  と、私は店の電気時計を見ながら答えた。 「松下さん、実は僕は、今日は気持が悪くって仕方がないんですからね。一つつきあっていただけませんか」 「つきあうって、どこへです」 「まあ、僕に任しておいて下さい」  無理に私を自動車の中へひきずりこむと、彼は銀座へ車をとばし、それから何軒《なんげん》となくキャバレー、バー、カフェー、社交|喫茶《きつさ》と飲み廻《まわ》った。  ついに昨夜の二の舞《まい》を演じそうになって、私は悲鳴を上げてしまった。 「もう沢山、僕はもうヘベレケです」 「それじゃあ、帰るとしましょうね」  彼は私の酒量《しゆりよう》をあわれむように首をふった。 「この車でお送りしましょう。いや、ご遠慮《えんりよ》はいりませんよ。昨夜のあなたの飲みっぷりでは、危《あぶな》っかしいですからね」 「どうも恐《おそ》れ入ります」  今夜の彼の豪遊《ごうゆう》ぶり、酒の飲みっぷりには私も舌をまいていた。父親が有名な実業家なのは分っているが、いったいこの男は何十万ポケットに入れて歩いているのかと思った。  車は夜の道を、私たち二人を乗せて、中野まで走りつづけた。  私はすっかりいい気持になって、窓から入って来る夜風に顔をなぶらせながら、酔《よい》をさましていたのである。  ところが、門の前で彼にお礼を言って別れて家に帰って来た私の前には、思いがけないことが起っていたのだった。  戸締《とじま》りも私の出かけて行った時のまま、別の人の侵入《しんにゆう》する方法もないはずなのに、机の引出《ひきだし》の中の現金が、跡形《あとかた》もなく消えていた!  銀行や郵便局などいうところとは、あんまり縁《えん》がない私、ことにひとり者の気易さで、わずかばかりの原稿料《げんこうりよう》が入れば、それを引出の中につっこみ、入用のたびにそこからとり出すことにしていた。  だからこれが私の全財産だったのである。  昨夜ああして、長岡敏夫のために、肴《さかな》を買いに行ったときには、たしかに三万円近くの金が残っていた。それが一枚も見あたらぬとは!  留守に泥棒《どろぼう》が入ったのかと思って、私は家中《うちじゆう》探し廻《まわ》ったが、この家に関するかぎり、絶対の密室だとしか思えなかった。便所も水洗便所だし、床下にも忍びこんで来るすきはない。とすれば、可能な解決は一つしかない。長岡敏夫は、私の金を盗《ぬす》んだのだ!  しかし、それもふしぎな話である。彼のような財産家の息子《むすこ》が、自家用車を乗りまわし、一夜の歓楽に数万円を投げ出す男が、どうして私のような、かけ出し作家の、二月分の生活費に手をかけたのだ。  私には、何が何だか分らなかった。だがどう考えても彼以外、この金に手をつけられる男はなかった。そして彼ならしようと思えば出来たはずなのだ。  私は残りの酒を飲みほすと、そのままひっくりかえって泣き寝入《ねい》りした。     9  どうしてもがまんが出来なくなった私は、翌日警視庁へ出かけると、兄の部屋《へや》へ飛びこんで、この盗難《とうなん》事件を報告した。 「オヤオヤ、お前の例の癖《くせ》が始ったぜ、お前ぐらい、物の始末の悪い人間はないじゃないか。家にいるときも、家内がずいぶんこぼしていたぞ。きっとどこかにしまい忘れたんだろう」 「いや、今度にかぎって、そんなことは絶対にありません。天地神明に誓って、盗《ぬす》まれたんですよ」 「長岡君が盗んだというのかい。何億という財産家の二人しかない子供の一人が、お前の机の中から、三万円ぽっちの金を盗んだなんて、てんで考えられないよ。これが人殺しでもしたというなら、満更《まんざら》分らないでもないがね」 「何といっても、盗まれたのは盗まれたんです」 「仕様がない奴《やつ》だな。もうその話はよしにしよう」  兄は不機嫌《ふきげん》そうに口を閉じた。  だがその時、給仕《きゆうじ》が持って入って来た、一枚の名刺《めいし》を見て、兄はニヤニヤと笑った。 「おい、噂《うわさ》をすれば影《かげ》とやら。長岡君がやって来たよ。いっしょに会うか」 「僕《ぼく》はもう、ああいう男とは、同席するのもいさぎよしとしません」 「えらく怒《おこ》ったね。まあ、すぐ帰って来るから待っていろよ」  廊下《ろうか》へ姿を消した兄は、五分ほどして、重い足どりで帰って来た。 「兄さん、いったいどうしたんです」 「彼は、自分の家の近くで、昨夜兄の姿を見かけたというんだよ。それに今朝《けさ》、塀《へい》の外のごみために、こんな着物が発見されたんだそうだ」  兄の示した黒地の和服、たしかにそれには見おぼえがあった。疑いもなく、あの女、殺された関川春江の着ていた品!  だがどうしたのか、その着物は、鋏《はさみ》で所々、不器用に切りとられていたのである。 「大発見じゃありませんか。敵ながら、あっぱれの功名ですね」 「ウン」  兄はなぜか、微笑《びしよう》もしなかった。 「研三、ほんとうにお前は三万円しかとられなかったんか。ほかの被害《ひがい》はなかったか」  思いがけない質問だった。 「はい、三万円でございます。とられようにも、それ以上とってくものがありませんよ」  兄はしきりに首をひねった。 「いったい何がおかしいんです」 「お前の話があったから、着物の話が終ったとき、おれは一本たたいてやったんだ。そしたら、本人が急にペコペコ頭をさげて、お前に謝罪するというんだよ」 「謝罪する——? それじゃあ、ほんとうにやったんですね」 「そうなんだ。おれの前に手をついてあやまったよ。自分には恥《はずか》しいけれども、盗癖《とうへき》があるんだって。お前が驚《おどろ》く様子を見たいと思って、ついフラフラと手を出したとさ。でも今日は金を返しながらあやまりに行くつもりだったというんだよ」 「何ですって? わびれば事はすむんですか。返せばいいと思うんですか。中国の泥棒《どろぼう》じゃあるまいし、とんでもない話です」 「怒《おこ》るなよ。なあ、先方も地位も名前もあるんだし、お互《たが》いのためにもならないから、一切水に流したらどうだ」 「いやです。僕《ぼく》は断然|訴《うつた》えます。法律は何のためにあるんです。新聞記者にでも何にでも話してやって、ジャンジャン書き立ててもらいます」 「勝手にしろ。しかしどうも奇妙《きみよう》な話だよ」 「何がいったい妙なんです」 「金額は酔《よ》っぱらっていて、よく分らなかったといったんで、十万円ぐらいあったとおどして見たら、はっきりおぼえていませんけれど、そのぐらいはありましたでしょうと答えたよ。  おかしいな、と思って、今度は金時計もとったろうとカマをかけたら、それもたしかにとったおぼえはありますが、酔《よ》っぱらって、どこへ忘れたか分りませんから、いずれ現物で弁償《べんしよう》しますといってたんだよ」 「金時計ですって! とんでもない話です。そんなものがあるくらいなら、飲みしろにしてしまいますよ」 「よろしい。それじゃあ一つ手を打って見よう」  ガラリと変った兄の態度に、驚《おどろ》いたのは私の方である。 「兄さん、いったいどうしたんです」 「こんな理由でもなければ、あの男を逮捕《たいほ》出来ないよ」 「逮捕してどうするんです」 「何かこの事件に関係はないか、徹底的《てつていてき》に洗うんだよ」 「関係がありそうなんですか」 「研三、お前の部屋《へや》に、今朝血の跡《あと》はなかったかい」 「ああ、二、三|滴《てき》落ちてましたよ。のぼせて鼻血でも出したのかと思っていたんですが」 「実は昨日《きのう》彼のズボンに血痕《けつこん》がかすかに残っていたんだよ。どうしたのかと思って聞いたら、お前の部屋で、梨《なし》か何かをむいていた時、手がすべって庖丁《ほうちよう》で指を切ったというんだよ。ハンケチで繃帯《ほうたい》をしていたろう。  大した傷じゃなかったがね。それをダシにして少ししめつけて見たら、案外早く、兄の行先が分るかも知れないさ」     10  さてその二日後、捜査《そうさ》は急転直下の勢いで最後の段階へ突入《とつにゆう》したのだが、その二日間、警視庁当局は拱手傍観《きようしゆぼうかん》していたのではない。  第一に、木下栄は峻厳《しゆんげん》な取調べによって、遂に係官の前に悲痛な告白をした。 「私はたしかにあの夜、彼のアトリエに参りました。しかしそれは自分の意志で行ったのではありません。  私は春江を愛していました。もうお調べになったでしょうが、私は春江を自分のアパートに住わせて、心から愛し切っていたのです。精神病といいましても、それほどひどいものではなかったので、人には気づかれないくらいでした。戸をたたけば、扉《ドア》を開けるぐらいのことは出来ましたし、別に乱暴もしないので、アパートの人たちも、唖者《あしや》だぐらいに思っていたんです。  私は春江を愛すれば愛するほど、だんだんに、この美しい女を、こんな目にあわせた、男を憎《にく》むようになりました。  長岡君がモデルにまた春江を使いたい、といって来たとき承知したのも、このいたましい姿を見たなら、彼もいくらかは、むかしの行為《こうい》を反省するかと思ったのです。だが彼には、人間らしい精神が全然残っていなかったのでした。  私は昼は春江を一人残して、アトリエへ通っていましたが、愛情は病気をも征服《せいふく》したのか、最近ではほとんど、常人と変らぬぐらいに回復しました。  私は天にも上る思いでした。春江は長岡君に復讐《ふくしゆう》したいという一念を、心に燃やしていたようですが、私はそれを止めました。この幸福と平和とを、失いたくはなかったんです。ところがあの晩は、帰って来ても、春江はいません。  淋《さび》しさにこらえ切れなくなって、私は渋谷へ出かけました。そしてバッタリ、長岡君に出あったんです。  彼は幽霊《ゆうれい》のように青ざめて、私の手を握《にぎ》りしめて申しました。  ——いいところで出あった。これから君のところへたずねるつもりだった。実は、実は、僕《ぼく》は春江を殺してしまったんだよ。  私のその時の驚《おどろ》きは、ご想像下さい。  私は彼をアパートへつれかえり、私が帰って来るまで、待っているように命令すると、さっそく彼のアトリエへかけつけました。  春江は頭をたたきわられ、一糸もまとわぬ全裸《ぜんら》の姿で、床《ゆか》に横たわっていたのです。  私はただ泣けて来ました。いろいろな思いが頭に渦《うず》まいて、考える力も何もなくしていました。  人間の心というものは、ふしぎなものです。こういう時には、いつも考えないようなことが浮《うか》んで来るんです。  彼の秘蔵《ひぞう》のルノアール——私は前から、それが欲しくてたまりませんでした。  彼だって、私の宝をこうしてなくしてしまったんだから、私だって、彼の宝をとりあげる権利がある——  理窟《りくつ》にならない理窟です。でもその時の私には、それが当然と思われたんです。  そのかげには、どうせ殺人さわぎの最中だし、主人は犯人で送局されるにきまっているんだから、絵の一枚や二枚、なくなっても分るもんかと、悪魔《あくま》がささやいていたのでしょう。だがアパートへ帰って来たときには、彼はいませんでした。私は呆然《ぼうぜん》としたまま、警察へとどける気力もなくなったのです。  自分の罪の圧迫《あつぱく》が、締金《しめがね》のように、急に私の心をおしつけて来たのでした……」これが、彼の言葉の大要であった。  一方、長岡雄二の方の行先も、杳《よう》として知れず、そればかりではなく、犯罪の行われた翌日の早朝から、彼と婚約を結んでいた、ミス東京、杉野まゆみも自宅から失踪《しつそう》していたのだ。  アトリエの鍵《かぎ》については、都内の錠前屋《じようまえや》を、しらみつぶしに調べた結果、同じ鍵を、つくってくれとたのみに来た、男のお客があったことが発見された。  ただその男の人相は、はっきり分らなかったのである。あるいはほかの男にたのんだか、あるいは変装《へんそう》して来たか、そのどちらかであったろう。     11  二日後——  長岡雄二の逮捕状《たいほじよう》をたずさえた、警官隊の一行は、偽名《ぎめい》して箱根小涌谷《はこねこわきだに》の連峯《れんぽう》ホテルに滞在《たいざい》していた、雄二とまゆみの二人を襲《おそ》った。 「オー、ミスティク!」  二世の夫婦と称していた、二人が捕《とら》えられたとき、雄二の口から出た言葉は、ただその一言だったという。  東京に護送され、警視庁に留置された二人は、峻厳極《しゆんげんきわま》る取調べを受けたが、その結果、意外な事実が判明した。 「あの夜、わたしはアトリエで一人、歩きまわりながら、次の作品の構想を練っていました。その時、あの女が一人、影のようにアトリエに入って来たのです。  鍵《かぎ》はたしかにかけたはず、しかも合鍵《あいかぎ》はないのです。私が身につけているものだけしか、この鉄の扉《とびら》を開く鍵はないはずです。  私は震《ふる》え上りました。幽霊《ゆうれい》でも見たような気がしました。  ——ホッホッホ、びっくりなすって、女の恨《うら》みがどんなものか。今こそ思い知らせて上げるわ。  春江は高く笑いました。私はもうがまんが出来なくなってしまって、そばにあったニッケルの文鎮《ぶんちん》を持って、女におどりかかりました。そして頭をたたきつけ、女を倒《たお》してしまいました……  気がついて、自分のしたことを考えて見たときに、私はゾッとしたのです。  殺人罪! 絞首台《こうしゆだい》!  何千万という悪魔《あくま》の群《むれ》が、高笑いをしながら、私のまわりに乱舞《らんぶ》しているような気がしました。  私は後先も分らず、家を逃《に》げ出しました。そして渋谷の木下君のところまでかけつけて、善後策《ぜんごさく》を相談しようと思ったんです。  彼は顔色をかえると、アパートの自分の部屋《へや》に私をかくし、自分が帰って来るまでは、どこにも行っちゃいけないと念をおして、アトリエにかけつけてくれたんです。  ところが、その中に、私は心配になって来ました。  彼だって、ほんとうに信用は出来るものか。ああいって、警官隊をつれて、間もなく帰って来るんだろう……  私はたちまち、夜の町へ飛び出して行きました。ただ、一人、どうしても会っておきたい人があったんです……私の妻、まゆみでした」  これだけならば、長岡雄二を、真犯人と決定するのは、何の困難もないようだった。  だがそれを、頑《がん》としてこばんだのが、まゆみの証言だったのである。 「あの人は、殺人犯ではありません! これは女の感情で、とやかく申すのではなく、ちゃんとした証拠があって申すのです。  わたくしたちは、もう事実上|結婚《けつこん》しております。お式こそまだあげませんが、わたくしにとって、あの人は天にも地にもかえられない人なんです。——わたくしは、誰《だれ》か知れない人から、匿名《とくめい》の密告状をうけとりました。  それには、あの人と春江さんとの、関係を細大もらさずあばきたて、この結婚はおやめになった方がいいだろう。もしも証拠《しようこ》が見たかったら、今晩の十時に、彼の家へたずねて行くように、と結んでありました。  わたくしが、アトリエに着いたとき、雄二さんは、入口から飛び出すと、わたくしにも気がつかず、両手をあげて、通りへかけ出して行ったのです。——わたくしは、不審《ふしん》に思いながら、アトリエの中に入って行きました。そしてあの人が倒《たお》れているのを見たのです。  いいえ、裸《はだか》ではありません。ちゃんと着物を着ていました。  それも死んではいなかったんです!  頭をやられて、気を失ってはいたようですが、ちゃんと心臓は動いていましたし、わたくしが脈をとっている間にも、呼吸は次第にかえって来ました。これならば大丈夫《だいじようぶ》、と思って、わたくしも帰ったんです。どんな事情があるかは知れませんが、わたくしはただ、あの人を信頼《しんらい》しておれば——と思ったのです。  翌朝、あの人は、わたくしに電話をかけてよこしました。わたくしたちは、ある場所でおちあって、今後の処置を相談しました。  死んだはずのない女が死んでいるなんて、誰かが罠《わな》をかけたんです。誰かがあの後であらわれて、女を殺して逃げたんです。  あの人は、自殺する、自殺するといって聞きません。わたくしは、いまに必ず真相が分るから、と涙を流してとめました。  一人でおいて、万一のことがあっては、と思いまして、わたくしたちは、二人で箱根《はこね》へ逃げたのです……」  これがまゆみの告白だった。  兄をはじめ、警視庁の当局は、思いがけない、この反証にいきり立った。この証言が真実だったら、雄二の殺人罪は成立しないのだ。  黒といい、白といい、庁内の意見も両派に対立し、何らのきめ手も、発見出来ない中に日は流れた。  ただ惜《お》しむらくは、天才神津恭介が、日本に居あわせないことだった。彼が一度立ちあがったら、その明智《めいち》はたちまち一切の障害を粉砕《ふんさい》して、解決の光明を見出すことも、決して困難ではなかったろう。  私はすべての事情をしたためて、彼に航空便を送った。  そしてその返事の到着《とうちやく》する日を、一日千秋の思いで待ちわびていたのである。その返事はやがて到着した。私はそれを開いて、思わず呆然《ぼうぜん》としたのである。言語に絶する彼の叡智《えいち》に、またしても舌をまいて驚《おどろ》かずにはおられなかった。  彼は故国を去る何千里、はるか異境の地において、この恐《おそ》るべき事件の秘密を、事もなく解ききってしまったのである。  思いがけない真相だった。だがこの事件を解く鍵《かぎ》は、ほとんどすべての人々が、何気なく見のがしてしまうと思われる、ちょっとしたところにひそんでいたのだった。  〈解決篇〉  神津恭介の解答は、簡単であった。 「犯人は、長岡|敏夫《としお》にちがいありません。  彼が君の金を盗《ぬす》むなどいうことは、いくら盗癖《とうへき》があったとしても、考えられません。  金を盗んだのは、おそらくほかの人間です。君の寝《ね》ているうちに、家に泥棒《どろぼう》が入ったのです。  彼はその間、家をあけていました。それを知られるのがいやなため、犯しもせぬ罪を自分にひきうけたのです。殺人罪より、窃盗罪《せつとうざい》の方が軽いでしょう。彼はそれによって、アリバイの崩《くず》れることを防いだのです。  彼は、君が便所へたったり本をとりにいったりするごとに置時計の針を少しずつ進め、一時間以上のズレを作っておき、最後にコップの中に、麻酔剤《ますいざい》を入れて、そっと家からぬけ出したのでしょう。  直接|証拠《しようこ》として、第一に、アトリエの鍵《かぎ》の偽造《ぎぞう》が出来るのは、彼に最も可能性が多いこと。  第二に、着物のことですが、もし犯人が犯行の途中《とちゆう》で、釘《くぎ》か何かに指をひっかけて、その血が被害者《ひがいしや》の着衣についたとしたら、犯人は血液型の問題から、見やぶられるのを恐《おそ》れて、着物をぬがせて持ち帰り、方々切りとって、発見したように見せかけることも考えられましょう。  ただ、その釘を持ち出してはまずいので、あらためて指を切り直したのでしょう。  第三に、被害者の衣類を発見したのが、彼であること、彼は兄の姿を認めたといっていますが、雄二の方は、その時はもう、東京にいないはずです。  第四に、凶器《きようき》の点で、せっかく殺人を認めている雄二は、文鎮《ぶんちん》で頭をなぐったとのべているのが不自然なこと。  第五に、狂女《きようじよ》を病院につれて行った男が、長岡雄二でも、木下栄でもないこと——これは、今野博士に敏夫の面通《めんとお》しをさせたらいかがでしょう。  木下栄が犯人だとすれば、ルノアールの絵の額縁《がくぶち》だけに指紋《しもん》を残したのは妙《みよう》ですし、雄二が犯人だとすれば、着物をなぜぬがせたか、という疑問が起ります。  結局、最も妥当《だとう》な解釈は、敏夫の方が狂女をつれて、田園調布に行き、アトリエの中に入れ、まゆみの帰ったあとで、自分が入って行って、息の根をとめたというのでしょう。  あの争いが起らなかったら、アトリエの外ででも、春江を殺すつもりだったでしょう。彼にとっては、春江に恨《うら》みはないのです。ただ、兄が殺人罪の犯人として逮捕《たいほ》されれば、それでよかったのです。  動機は結局、財産の継承権《けいしようけん》にあったのではありますまいか。兄がまゆみと結婚《けつこん》し、いずれ子供が出来る前に、兄が財産の継承者として失格し、父の莫大《ばくだい》な財産が、手中に転がりこんで来るのをねらったのではありますまいか。ただ確実と思っていた、アリバイが、原稿料《げんこうりよう》の盗難《とうなん》から、崩《くず》れ去《さ》るとは、彼も思わなかったでしょう。  これが私の推理です。お兄さんにも、この手紙をお見せになって下さい。  それでは、はるかに君のご健闘《けんとう》を祈《いの》ります」  棋神《きしん》の敗れた日  本誌の創刊四周年記念号にはぜひ執筆《しつぴつ》をとたのまれたのだが、あいにく去年の冬に高血圧で倒《たお》れ、ひたすら療養《りようよう》中の状態で、今日に至ってもまだドクター・ストップは解けていない。  ところが、私の担当者である編輯部《へんしゆうぶ》のK君は、私が現在病院へ通うために借りた仮住居から走って三十秒ぐらいのところに住んでいるのだ。最近マージャンで鴨《かも》に鉄砲《てつぽう》で撃たれ、葱《ねぎ》と鍋《なべ》とをぶらさげて帰られた後遺症《こういしよう》とかで見る影《かげ》もなくやつれてしまい、この上はマンションの屋上から飛びおりて——と私をおどかすのである。  私の眼の前で幽霊《ゆうれい》になられては、私も寝《ね》ざめが悪いから、なにかショート・ショートのネタでもないかと、古い日記帳をペラペラめくっているうちに面白い話が見つかった。  最近、「日本|将棋《しようぎ》連盟」から「日本将棋大系」という全十八巻の全集が出版されるそうだが、まさかこの怪《かい》事件がその中に集録されるわけはあるまい。名探偵《めいたんてい》、神津恭介が当時中野の元|横綱《よこづな》・照国が前に住んでいた家に近かった将棋連盟の累卵《るいらん》の危機を救ったという逸話《いつわ》だが、この話は「神津恭介全集」の中にも出ていないはずである。  昭和二十八年といえば、将棋界では第十期名人戦が行われた年である。この年、木村名人は鬼才《きさい》・升田八段の挑戦《ちようせん》を四対二のスコアでしりぞけたのだが、この年には「棋神《きしん》」というべき大天才があらわれ、たちまち幽霊のように消え失せたのだ。  とにかく、この事件は二十三年前の私の日記に厳然と書かれてあるのだから絶対に間違《まちが》いはない。その年の三月三十一日の記録である。  この日の午後九時ごろ、私の愛すべき友人松下研三は突然《とつぜん》フンプンたる酒気をおびて、私の家へ飛びこんで来たのだった。 「おい、おれは今日、日本|将棋史《しようぎし》に残る大記録を樹立《じゆりつ》したんだぜ。木村、升田、大山といえども、勝てっこない相手をもののみごとにたたきのめしてやったんだ」 「ゴ、ゴ、ご冗談《じようだん》でしょう」  私は思わずふき出した。 「冗談じゃない。真実だ。嘘《うそ》だと思うなら、連盟に電話をかけて留守番に聞いて見ろ。おれのおかげで連盟は梅原龍三郎先生の書かれた看板を持って行かれずにすんだんだ」 「チョイマチ、それは将棋の話だろうな、これがマージャンだというのなら……天和と大三元と国士|無双《むそう》と続けて出たということも、百万年に一度ぐらいは……」 「そうじゃない。正真正銘《しようめい》の『本将棋』だ」  私は天をあおいで歎息《たんそく》した。たとえ太陽東に没《ぼつ》するとも、地を打つ槌《つち》がはずれようともこんな奇跡《きせき》が起るわけはない。この「愛すべき友人」もついに松沢行きかと思ったのだ。  それにはちゃんと根拠《こんきよ》がある。  そのころ、私は青柳八段の一番弟子、後日八段に昇進《しようしん》した鴨沢《かもざわ》二級(当時十四|歳《さい》)の出稽古《でげいこ》を受けて、二枚落なら勝率九割、飛香《ひきよう》落なら「五分のり」という線にまでは達していたのだ。りっぱな素人《しろうと》初段の実力である。  ところが、松下研三の棋力《きりよく》たるや、その私が飛車と角を落して連戦連勝なのだ。さすがの私もあきれはてて、『オールと金』という破格の将棋《しようぎ》を指して見た。駒《こま》のならべ方はふつうの将棋の平手と同じだが、むこうの陣《じん》の三段目の歩が最初から全部「と金」に化けているという超《ちよう》将棋なのである。  ところが、ところが、私はこの一戦でみごとに勝利をおさめたのだ…… 「馬鹿《ばか》もいいかげんにしてくれよ」 「馬鹿だって? 君は数学を知らないな」 「いったいどんな数学だ?」 「AはBより弱い。BはCより弱いとすればAはCより弱いという単純|比較《ひかく》論法だ」 「そうだとも。君は僕《ぼく》より弱いだろう。僕とプロとの棋力は比較にもならない。だから君は明らかにプロより弱いわけじゃないか」 「ところがそうは行かないんだ。ここに一人の男がいる。『棋神《きしん》』と呼ばれる天才で、早指しだけれども、青柳八段、隅田《すみた》八段というような第一線の棋士《きし》たちを平手で完膚《かんぷ》なきまでにたたきのめした。ところが僕に対してはこの『棋神』もぜんぜん歯が立たなかった」 「おい、一高の卒業生|名簿《めいぼ》を持って来てくれないか」  私は大声で家人にどなった。いくら何でも最初から松沢へ送りこむのはかわいそうだから、東大医学部の精神科にいる先輩《せんぱい》を探し出し、精神|鑑定《かんてい》を依頼《いらい》するのが友人の義務だと考えたのである。 「奥《おく》さん、待って下さいよ。とにかく話を聞いてくれ。おれは精神異常者じゃないんだから」 「よし、聞こう」  松下研三は胸をはり、意気揚々と話をはじめた。たしかにそれは常人の想像を絶する怪《かい》事件だった。  この日の朝十一時、日本|将棋《しようぎ》連盟を訪ねて来た二人の男がいた。一人は古田武吉という四十なかばの山師タイプ、一人は吉川新一というのっぺりとした低能 |面《づら》の二十《はたち》ちょっとの青年である。  応対に出たのは現役を退いて、連盟の事務局に勤めている狭山《さやま》八段だったが、古田武吉は彼にむかって、将棋連盟の面子《メンツ》にかかわるような大言壮語を吐《は》いたのだった。 「狭山さん、この吉川君は将棋界はじまって以来の大天才、棋神《きしん》と言ってもよい人間なんです。棋聖《きせい》と言われた天野宗歩も、鬼《おに》と言われた伊藤|春寿《はるひさ》も、鉄人木村名人も、升田、大山、そういう若手の達人たちも彼には三舎を避《さ》けるでしょう。読みの鋭《するど》さは電気計算機をしのぎ、ねばりはチューインガム以上、破壊力《はかいりよく》はブルドーザーにたとえられます。ひとつ一局試験将棋で、彼の天才的な棋力《きりよく》をご鑑定《かんてい》下さいませんか」  狭山八段は、内心またかと思っていた。  こういう自称他称の天才は案外数が多いのだ。ことに田舎《いなか》の天狗《てんぐ》となれば、近くに敵がない程度の棋力で、すでに名人何するものぞとつけ上り、天下をとれるような気になってしまう。まったく井《い》の中の蛙《かわず》というような存在だが、その一匹《いつぴき》に違《ちが》いないと思ったのだ。 「それはたいへん結構ですが、あいにく私は今日ちょっと手がはなせない用事がありまして……誰《だれ》か子供にお相手させましょう」 「子供に?」  古田武吉はありありと不満の色を浮《うか》べた。 「子供と言っても奨励会《しようれいかい》の会員、プロの卵です。われわれでも平手で何番かに一番は負かされるでしょう。彼らと対等の勝負が出来るならこの方の棋力《きりよく》も相当のものですよ。ではちょっとお待ち下さい」  狭山八段は部屋《へや》を出て、連盟に住みこんでいる犬伏初段を呼んだ。当年十六|歳《さい》、未来の名人候補といわれる少年である。 「君、いま事務所に一人、たいへんなお客さんが来ているんだが、ひとつもんでやってくれないか」 「負かしてもかまいませんね」 「いいとも、ひとつ天狗《てんぐ》の鼻をへし折って二度と大言を吐《は》けないようにしてくれたまえ」 「わかりました」  犬伏初段はにやりと笑った。たとえ相手がどのような政界財界の大立者でも、お世辞負けなど夢《ゆめ》にも考えないような年ごろである。稽古《けいこ》をつけてもらうお客たちも、 「先生がたに負かされるときは、土俵の外へ静かに運んでもらったような気がしますが、彼らと来たら、土俵の上に頭からたたきつけるように投げとばすんですからな、こっちのほうがこたえますよ」  と言っているくらいなのだ。棋神《きしん》の末路も知れたことだと、狭山八段は安心した。  ところが、一時間ほどして、彼が昼飯は何にしようかと考え出したとき、犬伏初段は真青《まつさお》な顔をして部屋に入って来た。 「先生、負けました」 「どっちが?」 「僕《ぼく》がです」 「何を落して?」 「平手です。先後二番の約束《やくそく》で、早指しですが二番ともコッテンパーに負かされました」  八段は思わず椅子《いす》からとび上った。専門家の常識ではおよそあり得ないはずの椿事《ちんじ》が突発《とつぱつ》したのである。 「君、ちょっとその将棋《しようぎ》をならべて見せてくれないか」  奨励会《しようれいかい》の会員ともなれば、誰《だれ》でもいま指したばかりの将棋は再現できる。犬伏初段はふるえる手で、デスクの上の板盤《いたばん》に、自分の敗戦の跡《あと》をたどって見せた。 「うむ、なかなかやるな」  狭山八段は腕《うで》を組んだ。急所急所で、およそ一手の誤りもなく、こちらの隙《すき》をついて来る相手の棋力《きりよく》は凡手《ぼんしゆ》の芸とは思えない。 「先生、僕《ぼく》は将棋というものがわからなくなりました。あんなポッと出に負かされて……奨励会をやめて田舎《いなか》へ帰りましょうか」 「なにもそこまで思いつめなくても……僕がイッチョーもんでやろう」  八段は自信たっぷりだった。棋譜《きふ》の再現から相手の実力をせいぜい初段とにらんだのである。彼は煙草《たばこ》を捨てて二階の対局室へ上った。この日公式対局はなかったのだ。 「お待たせしました。仕事の手が空きましたから、私がお相手いたしましょう」  盤にむかって駒《こま》をならべると、八段は自分の角をとりあげて駒箱《こまばこ》にしまおうとした。現役中から下手殺しとか角落名人といわれたことだし、アマなら最高級の指手でもこの手割でこなす自信はあったのだ。 「先生、それはいけません」  古田武吉は無礼にもその手をおさえて、 「先生を平手で負かせないなら、棋神《きしん》とは言えますまい、私もなにも費用をかけてここまでつれて来ませんや」  と言った。八段は溜息《ためいき》をついて答えた。 「まあ、私はどちらでも結構ですよ」  こうして奇妙《きみよう》な勝負がはじまった。  七六歩、三四歩、二六歩、八四歩……  局面は相掛《あいかけ》模様に進展した。相手の顔と駒《こま》を動かす手つきを見ていればだいたいの棋力《きりよく》は見当がつくと自負している八段も今度ばかりは参ってしまった。なにしろ鼻くそをほじくりながら、ノータイムの連続なのである。将棋《しようぎ》を初めておぼえた人間のように、こっちの駒をとるにしても、いったん自分の駒をその上に重ねてから——という程度の手つきなのに、指手《さして》は一手また一手と、自分のもっともいやな最善の手順を続けて来る。  狭山八段はあつくなった。背広の上着を捨てて坐《すわ》りなおした。現役にいま一度復帰したように必死の読みに耽《ふけ》りはじめた。ところが相手は居眠《いねむ》りしているように眼をとじて、どこ吹《ふ》く風という顔だった。  最後は三十五手の即詰《そくづみ》だった。八段も気がついていながら、まさかここまで敵は読めまいと信じていた妙手《みようしゆ》、鬼手《きしゆ》の連続だった。 「負けました……」  狭山八段は駒を投じて部屋をとび出した。かけ降りるように階下へおりると、事務室にはちょうど雑誌の原稿《げんこう》をとどけに来た新鋭《しんえい》の現役、隅田八段と青柳八段が待っていた。  まだ二十《はたち》ちょっとで血の気も多いだけに、二人ともこの話には顔を見あわせた。 「それでむこうの要求は?」 「とにかく八段を平手で負かしたのだから、連盟から正式に九段の免状《めんじよう》を出してくれというんだよ。それとも看板をはずして持って行こうかと……」 「よし!」  二人とも勝負師中の勝負師だけに、この時は異口同音に叫《さけ》んで立ち上った。 「そうか。われわれ二人が負けたなら、看板を渡《わた》してやろうじゃないか」  ところが隅田八段はもののみごとに完敗した。当時は探偵《たんてい》作家と呼ばれていた推理作家の松下研三と名探偵神津恭介が「日本探偵作家クラブ」の将棋会のことで連盟にあらわれたのは、青柳八段との勝負のはじまった直後のことだった。 「ほう、世の中にはそんなこともあるんですかねえ」  素人《しろうと》三段の免状《めんじよう》を持っている恭介もこの話には眼を見はった。 「狭山さん、もし青柳さんが負けたなら、僕《ぼく》にも一局|指《さ》させて下さい」 「いやいや、それはいけません。なにしろ、むこうと来た日には、この上は木村名人か大山、升田クラスの指手とでもお手合せしましょうかとたいへんな鼻息です。ほかのことならともかく、こと将棋の道に関しては……」 「まあ、そんなことをおっしゃらずに……」  青柳八段の敗戦の後をうけて、盤《ばん》にむかった恭介も、もののみごとに楽敗した。 「狭山さん、あの相手になら連盟の看板をはずされずにすみますね」 「どうするんです? 今日のところは、こっちの持駒《もちごま》はありませんよ!」 「松下君がここにいます」 「松下さん!」  狭山八段は飛び上った。この名探偵《めいたんてい》も気が狂《くる》ったのかと思ったのだ。 「まあ、いいから僕《ぼく》に任せて下さい。それからここの事務室には、金と銀との区別もつかない女の子でもいませんか」 「会計の松山|嬢《じよう》なら、自他ともに認める盤痴《ばんち》ですよ」 「それは結構……じゃあ彼女に記録係をおねがいします」 「でも、棋譜《きふ》をとるだけの力は到底《とうてい》……」 「それだからこそ適任なんです。幸いに松下君は棋譜をとれるぐらいの力はありますからね。一手ごとに、先手七六歩、後手三四歩、そういうふうに声を出す。それをそのまま写しとって行けば、臨時の記録係はつとまるでしょう」 「それはまあ、そういうことになるでしょうがね……」 「いいからそういう勝負をしましょう。それから、立合人は誰《だれ》もその場に坐《すわ》っていてはいけない。そういう条件なら、このピンチは完全に切りぬけられますよ」  恭介の予言はみごとに実現した。四十分後に研三は鬼《おに》の首でもとったような勢いで、階段をかけおりて来たのだが、その初勝利の証拠《しようこ》となる棋譜に眼を通したプロたちは腰《こし》をぬかさんばかりにおどろいた。  もし、この棋譜を将棋雑誌の「棋力鑑定《きりよくかんてい》」に出し、正直な印象を発表したら、二人とも四十級以下の天ジョームキューといわれるだろう。松下研三はともかくとして、これがこの恐《おそ》るべき「棋神《きしん》」の実力だったのである。 「神津先生……これはいったいどういうわけです? いくらなんでも、私たちをあれだけ負かし続けた男が、松下さんに負けるなんて……私たちには到底《とうてい》信じられませんが」  この来客二人が頭をかかえるように逃《に》げ出した直後、連盟の応接室で狭山八段は、感無量という表情で神津恭介に質問した。 「それはとうぜんのことですよ。あの男はたしかに一種の天才でしたね」 「それはたしかに天才でしょう。私はともかく、青柳君や隅田君、若手のA級八段をみごとに負かして見せたんですからね。しかも将棋《しようぎ》をおぼえてから四十日しかたっていないというんでしょう。まったく天野宗歩の生れかわりではないか。升田、大山にまさるとも劣《おと》らない木村名人|打倒《だとう》の一番手になるんじゃないかと、私も信じかけていたんですが……」 「いや、天才は天才でも、将棋の天才じゃないんです。まあ、彼がプロ入りしたならば、相当以上の勝率はあげられるでしょう。しかし、素人《しろうと》相手の指導将棋となったらとたんにシドロモドロになるでしょうね」 「それはどうしてなんですか?」 「あなたがたはフーディニエという男の話をご存じありませんか?」 「フーディニエ、それはいったいどんな人物ですか?」 「歴史に残る大魔術師《だいまじゆつし》です。たとえば彼の逸話《いつわ》でこんなことがあります。厳重に目かくしをして相手にトランプの札《ふだ》をわたし、その中から一枚のカードをひかせて、何の札かあてて見せるというんです。しかもぜんぜんなんの仕掛《しか》けもタネもなかったというんです」 「でも手品にはかならずタネがあるんでしょう。だれかサクラのような人間がそばにいたんじゃありませんか」 「ふつうの場合はそうですが、彼の場合はいろんなデータを分析《ぶんせき》して見てもそうとは思えません。僕《ぼく》の推理では、彼は現代の科学ではまだ究明できない力——読心術の天才だったと思いますね」 「読心術……」 「そうです。相手の顔色の変化から心の動きを読む——これは程度の差こそあれわれわれが始終くりかえしていることですね。そしてこの感覚、能力が異常に発達した天才がフーディニエだったというわけですね。人のそばに立っているだけで、相手がなにを考えているのか、手にとるようにわかったのですね」 「ひえ……」 「たとえばいまの例ですが、あるとき一人のお客がカードを一枚ぬいて、これならばいくらなんでもわかるまいと、ほくそえんだというんです。トランプのおまけについているブリッジの計算表だったんですね。ところが彼はそれをちゃんとあてて見せたそうです」 「先生、そのお話と今日の事件にはどんな関係があるんです」 「あなたがた専門|棋士《きし》はえらすぎるんです。将棋《しようぎ》の道に関しては神様の集りのようなものです。局面を一目見ただけで、何十手という手が浮《うか》ぶでしょう。それを本能的に選別してこれと思う手をいくつか、また何十手か先まで読んで行くでしょう。その間にはとうぜん相手にこう指されては困るが——という手もわかって来るでしょう」 「それは……おっしゃる通りです」 「彼があなたがたと同じように、そんな変化をノータイムで読み続けられたのなら、それこそたしかに能書通り、棋道《きどう》はじまって以来の天才でしょう、たとえ棋神《きしん》と称してもどうにも反対できない存在でしょう。しかし僕《ぼく》の推理では、彼は読心術で、あなた方が、  ——こう指されては困るが、まさかこんな手には気がつくまい。  と思う手ばかりを連続的に指し続けたのです。あなたがたは自分と独り相撲《ずもう》をとっていたんですね。  ですから、あなたがたが習慣にしている終局後の感想戦——そんな場面では彼は一言もしゃべれないでしょう。そちらのこの手が敗因《はいいん》でしたね——というような発言が出来るわけはありませんよ。とにかく相手が強いほど強くなる、ふしぎな将棋の指手《さして》なんです」 「なるほど、それで松下先生が……」 「自慢《じまん》じゃないけれど、僕は『次の三手』どころじゃなくって、一手も先が読めませんからね。いくら読心術の大家でも、こっちの頭にないことは読めっこないでしょう」  松下研三は豪放《ごうほう》に笑った。 「それでもし、松下さんが負けたなら?」 「それはあなた方のいう『指運《ゆびうん》』の世界ですね。しかし、そういう場合には、残った証拠《しようこ》の棋譜《きふ》を見れば、彼の棋力は歴然としたでしょう。だからこそ僕《ぼく》はわざと駒《こま》の動かし方もわからない記録係をえらんだのですよ。たとえば犬伏君あたりが棋譜をとったら、  ——自分ならこう指すんだがなあ。  とたえず考え続けたでしょうからね」 「先生」  そのとき、いままで一言も発言しなかった隅田八段が口をはさんだ。 「何ですか?」 「僕《ぼく》はあれからずっと二階で自分の敗因《はいいん》を検討し続けていたんですが、彼らがしょんぼり玄関《げんかん》を出てから先生はすぐその跡《あと》を追いかけて行かれましたね。それで何か二言三言話されたら、彼らはとたんに元気になって、何度もペコペコ頭を下げ、胸を張って帰って行きましたね。いったいどんなお話をなさったんです?」 「えらいところを見られましたね」  神津恭介は微笑《びしよう》した。 「僕は彼らに最後の忠告をしてやったのですよ。日本|将棋史《しようぎし》に不滅《ふめつ》の名を残す——そういう野望、売名欲は今日かぎり忘れて、明日からこの青年にマージャンを教えこめ、それなら一月と十日はかけなくても、すぐ二人で食えるようになるだろうからと言ってやったんです。  まあ、マージャンの世界だったら、ほかの三人がどういうパイを待っているか、読心術の天才なら完全に読みとれるわけでしょう。ツモられる場合はしかたがないとしても、こっちからふりこむという可能性は絶対にないでしょう。それなら自分の上るチャンスはかならず出てくるはずですし、確実にかせいでいけるでしょう。まあマージャンの世界なら、雀聖《じやんせい》、いや雀神《じやんしん》といわれるような人間がどこかにいたとしたところで、なにも世間が割れ返るようなさわぎにはなりますまいからね」 初出誌一覧  青髯の妻   『X』昭和二十四年七月号  恐しき毒   『ホープ』昭和二十四年八月号  首を買う女  『キング』昭和二十五年四月号  鎖      『サンデー毎日』昭和二十五年九月一〇日別冊  湖上に散りぬ 『面白倶楽部』昭和二十五年十一月  モデル殺人事件『講談倶楽部』昭和二十六年新年号  棋神の敗れた日『野性時代』昭和五十三年五月号 角川文庫『首を買う女』昭和63年2月25日初版発行